今感じていることが
未来を創り出しているのではなく、

意識を先に生きるから
今が創られている。


ここでいう「意識」というのは
日常レベルでいうと
「未来の感覚」と置き換えると
わかりやすいと思います。


私たちは日々、
次の行動を思う時「意図」しているから
その感覚がわかりやすいのですね。


何か日常の中で計画ではない
突発的な予期せぬ出来事があったとしても
それに対して対応した行動をとるとき、
大抵の場合やはり同じように
間に「意図」が入ります。


個人的に「意図」と「考え」は別だと考えていますが
ややこしいので、今日は「意図」と書きます。


行動を思う時「意図」してる。


意の図と書くように、
つまり現実に現象のマップを広げているんですね。


全ての「迷い」は、
その「意図」が曖昧なことによって
生ずる自動挙動のようなもの。

「意図」が「曖昧」だから「当然」「迷う」

 


地図がないから。


この「意図」とは
「意識」によって「意志」によって
生成されるとも言えます。




このように考えると

私たちは先にあった現実世界に、
後からお邪魔した存在ではなく

意識が先にあって
世界に出会うことになった

ということを仮説としてでも
みていく価値が多いにあります。


太刀打ちできない現実世界の中に
生きている=包み込まれているのではなく

世界を包み込んでいるのが自分。

世界を内包している側は自分。


あくまで自分が

「創っている側」


「意」によって。


今いる現実世界があって
意識
そして次の現実

という感覚は、
「今」という延長に
次の現実がある

あくまで「今」がリードを取っている形。

今があって未来がある

というと聴き心地は
今を大事にするんだ!
という感覚になって良さげなのですが

(確かに今は大事です)

でも、裏側では
努力して決まったプロセスを
確実にやっていかなければ
「出来ない」
という積み上げ思考になりやすい
トラップともいえます。


意識があって
今いる現実世界がある

という感覚は「意識」の方がリードを取っている形。

連続していく流れに変えて考えると
一見同じことのようで、
どちらに重点を置くかで


主導権の視点がすり替わることに気付きます。

今に主導を置くことは
時間や限界能力に支配されることにつながります。


行動する前に

ちょっと待って
どうかな、
あれかな、
でも、あれかもしれない
などと、

クオリティを上げたい気持ちで
取り組み始めたものが
やがて迷いとなり
弱気となり
考え直している間に
結局やらない

という経験があると思いますが

精度を求める工程で
先にあった意識が
「今」寄りにすり替わっていくんですね。

つまり、現状の
どこから来たのかとにかくなんか

「まだ」な自分。

それにより、

まだ早いかも
誰も求めてないかも
私変かも

となっていき

「意」が置き去りになっていく。

そうやって「意」が「考」に
埋め尽くされていく。


そもそも
ここでいう「意」とは
何かからの評価など
求めているような性質ではないのに


「考」になった時
「自我」のエッセンスが
ふんだんに盛り込まれていく。

そりゃもうてんこ盛りに。


その先には

「本当にこれがしたかったのだろうか」
「私は何がしたいんだろう」

というスペースが待っている。


だから


自分の「意」の感覚を知り
関わってとことん関係を育む。

肩書きや職業なんかで妄想する
「使命」とやら自体を
知りたがるより
最も重要だと感じます。



さて、



あなたの「意」はなんですか?



またメールします^^