哲学 

「形而上学」のお話




「この方向(ある意味、アリストテレス以来ずっと境界を定められてきた命題の‘is(ある)’から‘being(存在すること)’が決定され、最終的にその存在を破壊する)にさらに進むことは、思想の一つの傾向である(Erkenntnisジャーナルに集められている)。そしてここで問題となるのが、「論理的に正しい」言語を築くために、初めて伝統的論理が科学の厳密さ(数学や微積分学)を用いて新しい境地を開いた時である。疑似的命題である形而上学上の命題は、論理的に正しい言語において今後すべてが表現できなくなる。こうしてこのジャーナルⅡ(1931fpp 219 ff)にあるカルナップの論文は「Uberwindung der Metaphysik durch logische Analyse der Sprache(言語の論理分析による形而上学の克服)」という表題を持つのだ。

そこで、最も極端な平坦化や伝統的論理の評価の根絶が、うわべだけの数理科学下で成し遂げられる。そこでデカルトによって始まった思考形式の因果関係(「私は考える、故に私は存在する」)に終止符が打たれた。真実はもはや、存在を明らかにすることにおける、「Dasein(実存在)」の適合と基盤の開示性に関する思考形式ではない。むしろ真実は‘確実なもの’に充てられる。単に思想を持つというのは、実際その開示性によって思考できないことを数学的思考で可能にするということである。この真実の概念は、確実に神の冒涜的な「神去り」(entgotterung)へと導いた。‘哲学’の実証主義の数理物理学の傾向とされるのは、この地位の基盤を提供するという願望である。この種の‘哲学’が現代物理学の基礎を提供するという願望は偶然ではない。そして現代物理学の基礎では、自然に関係するものは実際にすべて破壊される。また、この種の‘哲学’はロシアの共産主義に内部的・外部的に関連しているというのも偶然ではない。さらには、この種の思考はアメリカで勝利を祝うものであることも、偶然ではない。

これらのすべてが、‘Being(存在)’が‘is(ある)’を通じて認知され、その‘is’がその人の命題思想の認知に関連して解釈されるという、明らかに単なる文法上の事柄の究極の帰結というだけなのである。