人やモノに執着があるとき


強烈に『欲しい』が作動して


歯止めが効かなくなるのは


よく解る。


自分も、充分体験済みだ。




大旦那と、またよく語り合った。


今朝は、息子の塾の夏季講習について。


それしかないのか。と


突っ込みたくなるほど


塾の話題ばかりであるw



私が、ではない。


大旦那が。

(大旦那とは、私の旦那さんです。)



夫婦、連れ添って長くなると


出来れば要らぬ諍いは避けたいものである。


私も昔はそうで。


けれど、それは、お互い地雷を踏むのを避けているだけで、


努力の結果


避けるのが上手になった夫婦が


「昔はウチの人も扱いが大変だったのよ~。」みたいな?


熟練の手練れ夫婦みたいな人たちなのだと


とある人から、聴いた。



なるほど、さもありなん。として


そこから一歩ずつ、逃げずに 進んできた。


その結果、こんな幸福を手にしました!


とか、書ければいいが、


変わらず大旦那の声は無駄に大きく


よく喋り


性質は猪突猛進である。



変わったことといえば


わたしの意識。


彼を一度で判断するのでなく、


そうか、


この一生かけて観抜けばいいのか。


と気づくことが出来た。


すると、


みるみる、『自分の中の正しさ』が


溶けていき、


楽に軽く、観察が出来るようになった。


実際、


ある日疑問に感じた大旦那の言動を


その次の日、また次の日と、


ヘンゼルとグレーテルが


道に迷わないよう、点々と落とした


パン屑のように


解の欠片を


拾えるようになった。



実は、1つの解を解くことが、


波及して、


他の保留中の解を解くことに繋がることがある。


芋づる式に。というやつ。



わたしも、執着する相手が、いたが、


それがプロセスで溶けた途端、


他の世界観も、拡大したことを知った。



大旦那は時折、様々に、強い執着を見せる。


それはなかなか、観ていて心苦しい瞬間もある。


が、気持ちのお世話は、しなくていい。


彼が、パン屑みたいな解を


1つずつ集める様を


わたしは観てみたい。



また新たな希求が見つかった。





今日はここまでです。



お読みくださり

ほんとうに

ありがとうございます。