●奈良時代以降の政治について
壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇は皇族が政治を統制する皇親政治を行ったことで知られている。皇親政治と聞くと限られた勢力による独裁的な政治のように誰もが感じるだろう。だが実際には朝廷の政治にそれまで参加が許されていなかった地方豪族を受け入れることにより政治の間口を広げたのである。天武は政治家として有能であった。
その後藤原不比等・橘諸兄・吉備真備・弓削道鏡といった政治家が現れるが見るべきものがあるのは問民苦使を設置した藤原仲麻呂くらいしかいない。平安時代になるとレベルは遥かに落ちる。一門の栄華に明け暮れた藤原氏は論外としても有名な菅原道真でさえ讃岐国の日照りに際して雨乞いで対処しようとした程度の人物である。溜池を造って水不足に備えた空海の方が遥かに科学的ではなかろうか(空海には橋を架けたり湧水を湧かせたりする伝説が数多く伝わっている。後の政友会にも通ずるインフラ整備である)。
奈良時代末期から平安時代初期にかけて租税を納めた正倉が焼失するという神火事件が相次いで起こった。そのうち一例は現郡司の失火の責任を問うことによって次の郡司になろうとした者が野心から放火した事件である。また別の一例は結託した国司と郡司が横領を隠すために焼いたことであった。だが神火事件には神火で焼けたということにして税の帳消しを図る裏の思惑もあった。朝廷が無策の間、現地の指導者は困窮する民衆を救うために独自に社会問題に当たっていた。これでは朝廷を抜きにした秩序が形成されるのも時間の問題である。
●源義家の意義について
坂東には貴種流離の伝統があるが本格的に土着が始まったのは高望王からである。以後平将門・藤原秀郷などが現れるが武者達を統べる存在とはなれなかった。衆目の一致する武家の棟梁に初めてなり得たのは源義家である。奥州征伐において軍事的才幹を見せたからではない。朝廷の恩賞不支給に対して私財を投げうって将士を饗したからである。御恩と奉公の関係はここから生まれたとされる。西国では藤原純友や橘遠保が現れるが支配権を確立できていない。平忠盛に至ってようやく平家が西国の強者となるが所詮は日宋貿易の利益による紐帯でしかなかった。
上総御曹司を名乗り上総および鎌倉に下向した源義朝は清和源氏で初めての東国に土着した棟梁である。その子源義平は軍事的才幹にかけては武士の理想像である。だが義朝・義平はもとより木曽義仲・源義経であっても新しい時代を切り開くことはできない。新しい政治体制は政治組織を整備する必要性と朝廷から独立した組織を造ることの重要性を理解する源頼朝によって初めて導き出された。
頼朝のスタンスはしばしば新皇を名乗った平将門の思想を受け継ぐものとされる。だがそうであろうか。義家の師大江匡房の後裔広元を招いたことからもわかるようにそれは義家の生き様から主従関係の何たるかを学び取ったことから生まれた政策なのではなかろうか。人を動かすのは思想や理想ではない。収入の保証なのである。武力でもって諸豪族を服属させた朝廷は統治宜しきことでその後も人々を帰服せしめたが政道の乱れとともに統治権を失ったのである。
●鎌倉幕府における権力下降について
統治は本来天皇が朝廷にて行うものだった。それが摂関家に奪われややあって院政という変則形態となりその後ほんの僅かな隙に武家に奪われた。幕府は当初将軍専制だったが御家人の合議制を経て執権政治となった。以後も留まるところを知らず得宗専制となり御内人の内管領政治となった。
鎌倉末期という時代はこれのどこまで権力を戻すかということが問題として起きた時代であった。得宗北条高時は内管領長崎円喜から権力を奪還しようとする。名越氏ら執権政治を支えた北条一門は得宗専制に冷ややかな目を送る。御家人達は北条氏が政治を主導すること自体を嫌い足利氏は源氏将軍に戻そうとした。そしてさらにその先に朝廷へ統治権を取り戻そうとする後醍醐天皇がいた。
結局得宗専制も執権政治も十把一絡げに考えられて北条一門は纏めて葬られた。御家人は既に多くが滅ぼされていたので合議制は考えられもしなかった。源氏将軍と王政復古に選択肢は絞られたのである。御成敗式目を制定したり蒙古を撃退したりと高い功績がある北条氏だが正統ではない簒奪者との印象が強いせいで北条の政治は評価されたとは言い難い。だが北条時行の時点では評価されなかった北条も戦国時代には北条氏綱が北条を自家の家名としたように一部の人々には理想の政治とされるようになったのである。
●南北朝時代の新興勢力について
南北朝期は新勢力の台頭が始まった時代である。まず公家の世界では鎌倉時代に五摂家から武家伝奏へ朝廷権力の比重が移っているが南北朝期には北畠・千種ら村上源氏の面々がより活躍するようになった。そして最も重要な中級貴族の日野氏が登場する。南北朝期に日野俊基・室町期に日野勝光など朝廷・幕府に関わらず関わりを持つ人物が現れ戦国時代には本願寺の巨大組織まで生み出すことになる。非御家人層の悪党では赤松氏の活躍が最も華々しい。北条氏に敵対し南朝を裏切り後南朝の皇子を殺し足利将軍も殺し倭寇にもなっている。あらゆる悪事をなしていると言える。同じような存在として婆娑羅大名がいるが上皇に弓を射た土岐頼遠を見ても旧体制を打ち破ろうという姿勢は明白である。この土岐や前時代の北条泰時などは平将門より遥かに悪辣であるがなぜか逆賊指定されていない。同じ婆娑羅大名の佐々木道誉は観応の擾乱を左右するほど幕政に深く関与しているがこの一族は源平合戦期の佐々木秀業・関ヶ原の戦いの時の京極高知などなぜかいつも政権に近い良いポジションにいるのが不思議でならない。このようなアクの強い面々が観応の擾乱を呼び込むのである。
武功派と吏僚派による内部抗争の場合は吏僚派の頭目が梶原景時・相良武任・石田三成・本多正信のように武に疎い者達なので早々に片がつく。だが細川勝元と山名宗全・松永久秀と三好三人衆・南部信直と九戸政実のように共に政治にも武略にも長けている場合は殊の外長引く。まして観応の擾乱の足利直義と高師直は共にこの時代を牽引する名将なのでなおさらである。悪党・婆娑羅大名といった新たな潮流を取り込まずには政権の安定は成し得ないと見抜いていたからこそ足利尊氏は高師直を切り捨てることができず足利直義と敵対することになった。だがその努力が逆に仇となった。名分なき行動でも力さえあれば許されることを知った諸大名はその力を得るために動き大義無き戦争を延々と繰り返した。婆娑羅大名に見られた強欲さが一般の大名にまで蔓延してしまったのである。
こうして高氏(こう書くと尊氏の旧名なのか高一族なのか判断し難い)滅亡後も幕政の主導権を巡って仁木義長・細川清氏・斯波高経・畠山国清・吉良満貞・石塔頼房といった一筋縄でいかない連中が抗争を繰り広げていく。細川頼之の管領就任で一旦は落ち着くが時代が持つ矛盾は戦国時代の終焉まで解消されなかった。
●消された歴史について
歴史というものは全てが記されるわけではない。世に歴史書籍は数多く出ているが筆者の取捨選択で省かれるものがある。まずそれほど重要でない事項は消されていく。平山季重は保元の乱以後の源平の合戦全てに加わった名将だが小身御家人であり北条氏の権力掌握にも関わりが無かったために記述が省略された。次に筆者が理解できないことは消されていく。武蔵坊弁慶が三条大橋で千本の刀を集めていたのは新羅明神法を行うには千本の刀を用意することが必須とされたためだがこの呪法は当時であっても知る人が限られていたのでその行動の理由が分からずその理由が消されることになった。
証拠が足りないので消されることもある。例が三条猪熊合戦である。湊川合戦ののち足利勢に追い立てられた宮方は叡山に籠もる。周囲を包囲する足利勢に対し新田義貞は乾坤一擲の決戦を企図する。叡山を下った新田義貞は怒涛の勢いで京都を南へと突撃し行く手を阻む敵を打ち倒していく。途中で名和長年が討死するも遂に足利尊氏が本営とする東寺に辿り着く。義貞は名乗りとともに尊氏が籠る御堂に矢を撃ち込む、という天王寺の戦いにも匹敵する名シーンなのだが史実を証明する史料に欠けるので合戦自体が消された。
他者の功績のために消されることもある。賤ヶ岳の戦いを例に見る。戦局打開を狙う佐久間盛政は賤ヶ岳砦に奇襲を行う。中川清秀・高山右近・桑山重晴を相次いで敗走させた盛政は再三の退却命令を無視してそこに居座る。丹羽長秀の加勢を得て反撃に転じた豊臣方は盛政を追い込み賤ヶ岳の七本槍も加わった激戦が展開される。戦局は一進一退だったがそこに突然前田利家の戦線離脱が起こったため退路を断たれた盛政隊の士気は底をつき壊走に至る。この流れを見ておかしいことに気付く。なぜ柴田勝家は退却命令を出したのか、なぜ前田利家は戦線離脱したのか。陣地を取ったら通常は加勢を送ってそこを補強するものである。だがそうなってはいない。勝家は元より前田が裏切ることを予期していて退却命令を出したとしか思えない。前田を庇いたくて真相をぼかしたので佐久間盛政の勇将としての印象は消され命令違反した軽率な武将とされてしまったのである。命令に背いたのは果たして佐久間と前田のどちらであろうか。
●下剋上と忠誠心について
下剋上を繰り返して家格を上昇させた一族がある。斎藤道三一族である。松波から始まり西村・長井・斎藤とより上の主家を目指して乗っ取りを繰り返してきた。斉藤義龍が土岐氏の落胤と名乗ったのは下剋上の最終段階として美濃国主の土岐氏に成り済ますための行為ーいわば今までの乗っ取りの延長線上である。ではこのような行為に価値があるのかと言えば充分ある。当初は下剋上として忌み嫌っていても数代を経るとその家格の家柄として扱われ出すものである。一方で同じ家門のままだといくら実力があっても家臣団はどこかで見下していてついて来ない。その上忠誠心が育たないので次の成り上がり者に就いていってしまう。少弐に取って代わった龍造寺が鍋島に取って代わられ赤松に取って代わった浦上が宇喜多に取って代わられたように。
このような実力主義を止めなければ戦国乱世は終わらない。なので天下人はその対策を採ってきた。一つが相手の力を上回る圧倒的な力で抑えつけること。もう一つが忠誠心を育むほどの権威を持つことである。そのために織田信長は摠見寺の神になろうとしたし豊臣秀吉は太閤殿下として振る舞った。徳川家康は東照大権現となったが神であること抜きにしても葵の御紋の権威は絶大なものであった。
天下人以外で絶大な権威を持った一族がいる。本願寺家である。進者往生極楽退者無間地獄という狂信的な思想にも門徒は喜んで従った。それだけ宗教的権威は強烈だった(顕如と同じ幼名茶々を名乗る淀君が大坂城の主なのは偶然だろうか)。よく宗教戦争は一神教の偏狭な思想のもとでだけ起こると言われるがそうではない。我が国でも一向衆と法華宗によって凄惨な闘争が繰り返されたのである。一つの神しか認めないことではなく一つの思想しか認めない勢力が他勢力と遭うことで戦いが起こるのである。その意味では絶大な権威で乱世を終わらせた徳川幕府も朝廷という同じく絶大な権威を持つ別の存在が再浮上したことによって再び乱れるのである。
●本能寺の変観の変遷について
歴史の議論というものはその時代の流行に左右される。それは本能寺の変に関する考察を見ているとよくわかる。戦国乱世には野心から裏切るのは当然だったので光秀は天下を盗る野心から変を起こしたとされた。江戸時代に人情が持て囃されると光秀に対する酷い仕打ちが注目され仕打ちを恨む気持ちが原因とされた。田中角栄が闇将軍として政治を操った時代には全ての事件にはそれを操る黒幕がいるとして盛んに黒幕探しが行われ豊臣秀吉や徳川家康がその対象となった。平成になるとサイコメトラーエイジという漫画が流行したことがきっかけで事件の犯人はその事件で最も利益を得た人物だとする考えが生まれた。この場合長曾我部元親が一番利益を得たから犯人だとされた。
では一次史料ではどう考えられていたか。光秀の心情は当人しか分からないので書かれていないものの家忠日記などでは明智光秀と娘婿の津田信澄が結託して謀反を起こしたと書かれている。ではなぜこの二人が謀反を起こす気になったのか。私としては津田信澄擁立が目的ではないかと思っている。織田信長の後継者は生駒氏から生まれた信忠と確定していた。羽柴秀吉は生駒屋敷に出入りしていたことにより織田家に仕官できたと伝わるので生駒派である。明智光秀は濃姫の親類と伝わるので濃姫派であるが濃姫には子がなかった。そんな光秀が娘婿としたのが傑物と評される津田信澄である。信澄はこれまで順調に出世しており本能寺の変の前には織田信長が将来の本城にする予定だった石山本願寺跡に駐屯していた。光秀には男児は元服したばかりの子しかおらず信澄を当面の後継者として見てさらなる活躍を期待したであろう。
だが信澄は次に編成された四国方面軍の司令官にはなれなかった。それどころかほぼ同格であった織田信孝に与力として従うことになった。信孝・三好咲岩と違い戦後に拝領する国は決まっていなかった。光秀の石見・出雲転封の噂とともに自勢力が権力中枢から遠ざけられるように感じたであろうことは想像に難くない。信澄には長男信忠には及ばずとも家中でそれなりの領地と地位を持つことを期待していた。なのにその期待と相違する結果になったことは光秀をして裏切られたと思わしめるのに充分だろう。これが謀反の原因ではないだろうか。即ち信長・信忠を討って信澄を織田家当主とすることが謀反の目的である。加えて本能寺の変において光秀が丹波から京都へと進軍したルートは足利尊氏が六波羅探題を攻めるために篠村八幡宮から進んだコースと同様と思われる。自身を後醍醐天皇を擁立するために進軍する尊氏になぞらえていたのかも知れない(信長を討って光秀が将軍になろうとしたという気持ちも否定しきれない)。
いち早く信澄を討ったのは丹羽長秀家臣上田宗箇である。津田信澄擁立が本能寺の変の目的だとすると長秀が光秀の目的をいち早く粉砕したということになる。変後の光秀が細川忠興に政権を譲りたいと言うなど精彩を欠くのは肝心の信澄が死んでしまい落胆したためではなかろうか。その後丹羽は賤ヶ岳でも重要な役割を果たしている。意外に切れ者である。柴田勝家は信澄を養育した人物なので信澄擁立には消極的承認だったのかも知れない。
話は変わるがこの頃に安土城が焼失している。宣教師が神の怒りだと記しているので落雷が原因ではないかと思う。人為だとすると甲賀からドサクサに紛れて戻ってきた六角承禎家臣団が関与しているのではないだろうか。
●文治政治について
徳川家には性格の異なる三奉行がいた。鬼のように苛烈な本多重次・程々にバランスのとれた天野康景・仏様のように優しい高力清長である。ではこの中でどの立ち位置が時代に求められたか。歴史から類推するに高力である。本多は秀吉の母に対する仕打ちからその怒りに触れて蟄居に追い込まれる。天野は天領の泥棒を斬った部下を守るために領地を捨てて出奔する。高力は自身の仕事に伴って発生した金でさえ着服せずに返却するほどの正直者だったので後々まで重用される。乱世が終わり武断政治が必要とされなくなる時代背景においては文治に重きを置いた人物ほど必要とされたのである。
慶安の変に際して老中阿部忠秋が末期養子の禁を改めることを主張した時から幕府は文治政治へと移行した。不逞浪人の増加が社会問題化していたので対策が急がれたためである。だが浪人が事件を起こして成そうとしたことと言えば精々幕閣数名を暗殺する程度の事である。この時代に起きた本郷本妙寺より出火の明暦の振袖火事では江戸市中を軒並み焼き尽くし江戸城天守まで焼失したと言うのだから浪人が起こす事件などより被害は遥かに甚大である。この後大火は駒込大円寺より出火の天和のお七火事・京橋より出火の勅額火事・目黒大円寺より出火の明和の大火など相次いで起こっている。八百屋お七は好意を持った男に逢いたいから放火したなど動機は軽々しいがその行為がもたらす結果は後の関東大震災や東京大空襲にも劣らぬものである(お七は未遂である)。悪意のないただの一個人でも都市を壊滅させることができる時代に来ていた。
幕府は対策として火消・火付盗賊改を設置したり大名屋敷に池泉庭園を設けたり武家屋敷や寺社を外堀内から移転させたりした。浅草に寺社が多いのは火事対策で城内から移転させられたためである。火消は現代のように水で消火する仕事ではない。延焼しそうな建物を片っ端から破壊していくのが火消である。これが荒っぽい江戸っ子気質に輪をかけた。世が文治政治で柔和になる中でも火事と喧嘩で江戸の武が維持されたのである。
●藩閥独裁について
明治維新は近代の始まりのように考えられているがそれは結果論でしかない。伊藤博文と五代友厚が長州藩・薩摩藩に開国を説いたことにより藩論が開国で纏まりそれによって実際の歴史に現れる明治政府が誕生したのである。長州藩が攘夷派のままだったり水戸藩激派が政権に加わっていたりしたら鎖国に戻ることになった可能性がある。佐幕派が政権を執っていたら天皇が君臨していない可能性がある。それと同じで大久保利通が暗殺されていなかったら藩閥独裁体制が続いていた可能性がある。
日本が憲法を持つことになったのは民権派の攻勢を受けた伊藤博文が先手を打って憲法制定を確約したからである。政党政治が行われるようになったのは自由党と伊藤博文・改進党と松方正義に提携関係が生まれ、その後に藩閥官僚をも取り込んだ巨大政党政友会が誕生したからである。板垣退助と伊藤博文の間に立って民党が政権に加わるための道筋を付けることに苦心した星亨と陸奥宗光がいたからこそ民権は到来したのである。即ち民主主義は歴史の必然ではない。大久保利通は霞が関を整備した偉大な政治家とされるがもし暗殺されずに独裁体制が続いていたら日本に民権時代は到来しなかったであろう。そうなっていたら彼は独裁者として憎まれていたかも知れない。
同じようにフランスでナポレオン失脚以後復古王政・七月王政・第二共和制・第二帝政・第三共和制と度々政権が変わりその都度革命まがいの事態が起きているのだって傍から見る分には無用な犠牲に見えてできれば起きない方が良いくらいに感じられるが現代社会はこの時獲得した政治権利が現代思想の潮流として各国に広まったことにより形成されたのである。これらの革命を経ねば現代社会はより劣った人権状況だったに違いない。軍事面でも装甲艦や潜水艦は第二帝政、偵察機・航空母艦・戦闘機は第三共和制で初めて造られるなど政治史からだけでは伺い知れない活力のある時代であった。
●陸軍について
陸軍の実質的な創設者である山縣有朋は軍国主義の権化のように描かれることがある。それは半分当たっているが半分はそうではない。下関戦争でキューパー提督率いる連合艦隊に苦杯を嘗めた山縣は列強の軍事力の強大さを誰よりも強く認識し軍事力無くしては国家が成り立たないことに気付いた。それ故山縣は後々まで陸軍拡張に邁進するのである。元治内戦の時、蹶起した高杉晋作の尻拭いをしたのは山縣であった。高杉が下関を襲撃している間山縣は独り太田・絵堂で長州藩兵と対峙していたのである。軍事力を軽視できるような時勢にはそもそも立っていないのである。
山縣を明治前半の代表的軍人とすれば明治後半の代表的軍人は乃木希典であろう。乃木は戦前にはその生き様が賛美され戦後は逆に国家が押し付けた忠臣像として忌避された。だが乃木自身は何ら押し付けがましいことはなかった。将校と兵卒が一緒に行動することが無かった時代に乃木は兵卒と同じ釜の飯を喰らい同じ釜の風呂に入った。故に兵卒はこの人のためなら死んでもいいと思いどんな苦境にあっても従ったのである。奉天会戦において大本営参謀は状況を弁えない命令を出し時としてそれは二転三転した。旅順攻撃の時から不本意な命令に悩まされていた乃木はここにきて激怒、大本営に通じる電話線を引きちぎった。連絡を断った乃木は自分の意思で麾下の軍を奉天に向けて北上させる。クロパトキンは乃木軍一人に対し五人となる兵力を当ててきたが乃木はそれさえ撃ち破った。通常なら二倍で苦境に陥るところである。結果この進撃を脅威に感じたクロパトキンが退却命令を出すことで会戦は終わった。戦後乃木は凱旋を迎える人々を前に「予は爾の子弟を殺したり」と泣いたという。
山縣が築いた長州閥は桂太郎・寺内正毅・田中義一と続いた。田中以降は岡山の宇垣一成・大分の南次郎が続くが二人とも長州閥の延長に過ぎない。これに対して満州事変を契機に陸軍を握った皇道派は佐賀閥の流れを汲むものでありその中心人物は荒木貞夫だった。皇道派は対ソ戦の態勢構築を何よりも重視していたがここから中国一撃論を唱えた永田鉄山が統制派を結成して分派、ここに両派の抗争が勃発する。だが統制派は226事件で壊滅、皇道派も事件後の粛軍で衰退する。ここで陸軍を主導する立場に立ったのが石原莞爾と梅津美治郎である。満州事変を起こした石原を危険視する梅津は東條英機を抜擢し石原追い落としに動く。石原は部下の多田駿を用いて対抗する。両派は共倒れの形になるがそこで権力を握ったのが軍務課長に過ぎない有末精三だった。有末は統制派の武藤章を陸軍省に呼び寄せる。続いて田中新一が参謀本部に移動してくる。最後に東條英機が舞い戻ることによって陸軍の態勢が固まるのである。
東條はバーデンバーデンの密約にも参加した革新派の古参だった。当時は部下に情が深い人物として知られていた。以後永田鉄山に付き従うが永田の影響はそれほど感じられない。満蒙領有とか他の軍人と同じ程度のことしか言っていないしやっていない。永田の死後は梅津美治郎から後任の陸軍次官に抜擢される。梅津は無派閥の良識ある軍人であり軍人は政治に関与すべきでないとするその姿勢によって昭和天皇にも信頼されていた。東條には各所に梅津の影響が色濃く見える。一度左遷された東條は陸軍の要職を占めた武藤章らによって連れ戻され陸軍大臣となるがこの時東條を推薦したのは犬猿の仲だった山下奉文の盟友の参謀次長沢田茂だった。事情を知らない東條は沢田にキツく当たっているが後に巣鴨プリズンで事情を知って感謝している。東條という人物から感じられるのは好き勝手に意見を言い独断行動をとる軍人を嫌いこれを強く統制していこうとする姿勢である。腹心の富永恭次であっても北部仏印進駐を引き起こし統帥を乱したとして一旦は更迭している。東條にあったのは梅津以来の宿願ー統制の回復ーであって開戦は陸軍の総意を考慮しつつ情勢に合わせて粛々と行ったに過ぎない、そう感じられてならない。
●海軍について
戦艦大和や空母赤城、零戦といったものを見て近代日本の技術力は優れていたという人がいる。それは厳密には間違いである。幕末に小栗忠順が造船所を築造して以降技術力は順調に向上し昭和期には多くの物が国産化できるようになった。だが日本が建造した物全てを日本が一から設計したわけではない。日露戦争の敷島級戦艦はイギリスに発注したものであったしイギリスへの発注は1911年の金剛級戦艦1番艦まで続いた。空母建造技術は日本が第一次世界大戦でイギリス艦隊に協力したことに恩義を感じたセンピル大佐がもたらしてくれたものだった。零戦に使われているジュラルミン技術や戦艦大和に使われている防御甲鉄板の技術は第一次世界大戦に敗北して軍備が禁止されたドイツが将来ドイツに還元することと空母建造技術の提供を交換条件として日本に与えたものだった。日本が独自に開発した物は酸素魚雷など限られている。
とはいえ航空母艦は山本五十六によって機動部隊として集中運用しやすいように日本独自に改良されているしその他の軍艦・航空機も日本の独自開発である。国産化ができる技術力も技術供与を受けられるような外交関係のどちらも疎かにしてはいけないのである。第二次世界大戦序盤においては村田重治・江草隆繁といった優秀なパイロットを擁する日本は空母の運用に関して圧倒的に巧みであった。それが中盤からアメリカが物量でもって大量の弾薬を撒き散らすようになると日本は熟練パイロットが失われていき劣勢に立たされる。現在の自衛隊を見るに再び優秀な人材を育てる流れになっているようなのが気掛かりである。本来はかつての米軍のように練度に劣る兵員であっても効果的に殲滅戦を行えるよう準備すべきではなかろうか。
日露戦争における敵前大回頭・通称東郷ターンで勃興した帝国海軍はレイテ海戦における反転・栗田ターンによって滅びた。この滅びに至る過程は実に悲劇的だった。サマール沖こそ戦果が挙がったがエンガノ沖では自己犠牲の陽動から航空母艦の全滅を見るに至った。あの時レイテ湾に突入していれば、と言う人がいる。だが兵を全滅させてでも作戦目的を達成しようという考えはインパール作戦における牟田口廉也と何ら変わらないのである。兵団や艦隊は机上演習やシミュレーションゲームで使うような単なる駒ではない。兵一人一人が命の通った人間でありその人間から構成されるのが各軍事単位である。それを忘れては私達も旧軍と同じ過ちに陥ってしまう。歴史を見る上で大切な視点ではなかろうか。
●イブについて
アダムにはイブの前にリリスという妻がいたとされる。イブにはアダムの肋骨から生まれたという話が伝わっている。このことから考えるとイブは元々アダムの娘なのではないだろうか。古代エジプトでは親子兄妹間で平然と婚姻が行われている。類人猿だった時代の人類は皆そのようであったろう。アダムも同じであり最初にリリスを妻にした後生まれてきたイブを次の妻とした。嫉妬に駆られたリリスはアダムに対し近親が交わることを戒めた(蛇は嫉妬を暗示している)。そこでアダムは初めて近親交配の間違いに気付いた、そういう筋書きではなかろうか。
エデンとは人が禽獣だった頃の世界であり林檎を口にすることはモラルの目覚めを表現しているのだろう。神話には神の戒めを破り人類が知恵を手にする話が出てくる。神は人が生命の樹を食べないようにケルビムと炎の剣を置いて守らせたと伝わる。神は人類の進化を阻害する存在と言えるのではないだろうか。原罪は人類がその存在の誕生以来近親婚を繰り返してきたことを知った古代人のどうにもならない悔恨の情を表しているのかも知れない。ともあれ人類は神に背くことにより理性と知性を手に入れたのである。
●安定か自由かについて
ナポレオン政権は東のロシア・プロイセン・オーストリアからなる神聖同盟と西から迫る大英帝国の挟み撃ちに遭って崩壊した。戦後オーストリアのメッテルニヒによって王侯支配に回帰するという方針の正統主義に基づくウィーン体制というものが築き上げられた。ウィーン体制は国際関係の安定化を図ると同時に無闇に革命が起きるのを妨げるために存在しており決して悪いものではないがこの体制はフランス革命とナポレオンが認めた民主的権利を否定したので反動体制視され民衆からは忌み嫌われた。日本でも百姓の持ちたる国が加賀藩という大名支配に回帰したり下剋上で成り上がれる時代が身分の固定化した時代へと変わったりしたが逆行とは考えられていない。平和な時代になったと考えられているくらいである。だが西洋人はそうは見なさない。結局1848年の革命で体制は崩れるのである。
共にナポレオンを倒した仲間だが大英帝国はウィーン体制に入っていない。ギリシア独立戦争でもスペイン革命でも南米の革命でも革命を支援する側に回っている。この時の外相はカニング。新興地帯との貿易の利益を見越して支援したとされるがこの時の行動から大英帝国が自由主義の旗手と見做されるようになったので外交としては大成功だった。
自由主義の旗頭は後に大英帝国からアメリカ合衆国へと移行することになった。有名なジョージ・ワシントンは独立戦争における軍事的功績から大統領になった人物である。そこに至る政治過程には関与していない。植民地を纏め上げる役割を果たしたのはサミュエル・アダムスでありその結果結成された大陸会議の議長はペイトン・ランドルフが務めた。大陸会議は連合会議に改編されるがその最後の議長はサイラス・グリフィンだった。独立過程を実質的に指導した建国の父達であったが彼らがアメリカ政府の要職を占めることはなかった。フィリピン革命の中心人物ボニファチオや攘夷派の領袖大楽源太郎が政府から排除されたのと同様の事例である。安定した体制は自由を求めた革命によって打ち砕かれるが革命であっても最後は安定に行き着く。問題はその行き着いた先に当初求めていた自由があるかということである。
●多民族共生について
ドイツ人の国民国家建設を目指すプロイセンとの戦いに敗れたオーストリアは神聖ローマ帝国内の非ドイツ人領邦を併せることでオーストリア・ハンガリー二重帝国として生き残った。非ドイツ人達はドイツ人君主であるハプスブルク家に忠誠心を持っておらずそれ故アウスグライヒという政治権利の移譲によって統合を図ってきた。これに対して自らの国民国家建設とその領域の拡大を目論むスラブ人国家は真っ向から対立した。結果としてオーストリア帝国は倒壊しスラブ人によるユーゴスラビアが成立するがそこで行われた政治はオーストリアより遥かに多民族に対して厳しいものだった。
オーストリアはハンガリーとアウスグライヒを行ったのを手始めにクロアチア人やチェコ人ともアウスグライヒを模索したがユーゴスラビアはセルビア人もクロアチア人その他も権利要求だけしかせず、結果対立して激しく憎しみ合い最後はユーゴ紛争まで行き着くのである。ただオーストリアでは自民族の権利を削減してまで他民族に権利移譲をしたのでナチズムという極端な思想が生まれたがユーゴスラビアではセルビアもクロアチアも自民族の権利を削減するようなことは無かったのでそのような思想は生まれなかった。だが思想が生まれなかっただけであってユーゴ紛争に際してはナチズムと大差無いことをしたのである。統合しなければバルカン戦争、統合すればユーゴ紛争、結局どうすれば正しかったのかは誰にも分からない。外国人問題が頻発する現代日本もよく考えるべき事案である。










