前回は吉見町の東側低地に造られた横堤を見てきたが今回は西側の吉見丘陵へ街歩きしに行ってきた。

吉見丘陵で見所と言えば東側の御所に源範頼館跡である息障院光明寺と吉見観音安楽寺、南西側の北吉見に吉見百穴と松山城がある。通常の観光客はそれらのスポットを巡るだろうし私もこのエリアを訪れた当初はそこらへんを観光した。が、今回行くのはそこではない。行くのは北西側の長谷(ながやつ)である。長谷はあるものと言ったら住宅地と長谷工業団地だけという史跡の無いエリアなので普通の人なら興味を持たないと思われる。だが私はここが無性に気になるのである。気になる理由がコチラ。



尾根にある交差点を東に行けばひばりが丘、西に行けばたつみ平。松の平はたつみ平を進んだ先にある。
たつみ平と松の平の間にあるのが標高78mの西吉見山。山と言ってもただの尾根道なので実感は無い。
そこからほんの僅かで松の平の看板がある場所に出る。北から2条目の道を下っていく。

ここから見える景色は佐久か志賀高原に来たのではないかと勘違いするほどの大パノラマである。比企丘陵の緑の先に見える秩父山塊、分けても笠山は目を引く。鳩山の笛吹峠下でも笠山が印象的だったがここでもやはり笠山に心を惹かれる。
下っていくとどんどん勾配がキツくなっていく。写真の場所が急坂を下り終えた先、松の平の西端にして一番低い場所。既に川と同じ高さの低地である。どこにも抜けられないどん詰まりなので廃屋が多く見られる。
来た道を振り返る。写真ではっきり坂道だとわかるほどの急坂。決して登りたくはない。

草叢の道を歩いて行けばすぐに滑川に出る。未舗装だが雑草に埋もれていないので通る人は多いのかも知れない。
滑川に架かる八幡橋を渡ると岩鼻運動公園となる。この公園は滑川と市野川に沿った低地とそれ挟まれた台地上の両方に跨って存在している。国道で分断された東西エリアを歩道橋が繋ぐ。雑草が処理されていないのが残念なところ。東松山は東松山駅前と高坂のニュータウンを除いてあちこちが雑草だらけ。もっと手入れしてほしいところ。

公園エリアを過ぎて市野川を渡ると市街地らしくなってくる。川沿いの低地は狭くすぐに傾斜地となる。今回の街歩きはここまでなのだが前回歩いた分を記事にしていないのでそれを利用して文を繋げる。

緩い坂道を登るとそこにあるのが上沼公園。台地の先端部分に立地している。台地の崖下にある沼はよく見かけるが上にあるのは珍しい、と思ったら元は農業用貯水池だった。沼のすぐ近くには松山総鎮守の松山神社が鎮座している。




その脇の若松町一丁目交差点にあるのが首切り地蔵と七鬼神社。何とも物騒な名前だがそれもそのはず、この場所は前橋藩の処刑場だった場所なのだから。なぜ前橋藩なのかと言うと前橋藩と川越藩は江戸中期に合併して以降川越藩を名乗っていたが幕末には逆に前橋藩となった。その前橋藩の陣屋が東松山に置かれたのでここに前橋藩の処刑場があるのだ。
首切り地蔵はそのものズバリの名称。一方で七鬼とは何であろうか。それは却温黄神咒に出てくる七柱の女鬼(夢多難鬼・阿佉尼鬼・尼佉戸鬼・阿佉那鬼・波羅尼鬼・阿毘羅鬼・波提犂鬼)のことである。この経は疫病を運ぶとされた七鬼を払うために唱えられた。処刑場なので地獄の獄卒が鎮座しているのかと勘違いしそうになるが実際は死体に関わる疫病除けで祀られているのである。この日の街歩きはここまでなので再び別の日のものを引用して文を続ける。
若松町一丁目交差点の北東側の一角は建物の建っていない原野となっている。原野は北東へ暫く続くがやがて台地を切り裂く谷となる。谷の周りは私有地で入れないので迂回して若松町一丁目6地点にある階段から下に降りていく。



さらに東へ進むと五領沼に出る。この沼は台地の下に造られた調整池。五領という名称は御霊からきた名に違いない。刑場に降った雨は台地を伝ってここに流れ落ちるので霊が集う場所と考えられたのであろうか。

五領沼から南は緩やかな登りとなる。登ること僅か5分ほどで台地上に出る。台地は岬のように細くすぐに傾斜地となる。その先は都幾川河畔の低地。東松山台地の終焉である。








