交通事故が自分を変えるきっかけになりました(3) | 覚技ワーク~注意の行き届いた自然体★新海正彦

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覚技(かくぎ)とは、さまざまな心理療法に、武術や音楽やシャーマン的テクニックを取り入れた、こころとからだに目覚めをもたらすトレーニング・メソッドです。

まず言っておきます。今回もブログ、長いです。でも最後まで読んでくださいね(笑)。

僕が武術をやり始めたきっかけは、交差点で追突された自動車事故でした。
事故で進路を強制的に変更され、運命的に(?)武術と出合った形でした。
ただし「武術」といってもその武術は実に風変わりなものでした。
何よりまずその武術には、武術といわれるものには必ずある「型」がない。
だから、「武術?何かやって見せてよ~!」と言われても、「あ、じゃね、たとえばこんなこと…」と見せてあげるものがありません。
その上この武術は力も使わないというのですから、ぶっちゃけ「そんなの武術なの?」という感じです。
でも、だからこそ僕は交通事故でガチガチのヨボヨボになった体を根本から治す手段として、この風変わりな武術を選んだのでした。「これをやったほうがいい」という直感というか、根拠のない確信が僕の中にあったのです。
(*詳しくは前回までのブログをご覧ください。)

実際、交通事故で痛めた体は快方へ向かい、事故直後は一枚の固い板のように感じていた背中が、肩、肩甲骨周り、腰周り、背骨沿いの筋肉…と、それぞれ分かれて感じられるようになりましたし、腰の張りもかなり取れてきました。
とはいえ背中と首の違和感は頑固に残っていました。しかしこの背中と首の違和感、よくよく考えてみると、事故以前からあったのです。単に気にしていなかっただけのこと。それが事故をきっかけに気なりだしたというわけでした。つまり元々僕には背中を緊張させるクセがあったのです。
そこで僕は背中を緊張させるクセに気をつけながら稽古をするようになったのですが、するとそれまでとは違う動きができるようになりました。

■何がそんなに面白かったのデスカ?
結局僕は、その武術をなんと10年近く(!)も続けることとなりました。
毎週、毎週、横須賀から東京まで1回も休むことなく稽古に通ったのです。
我ながら驚きです。
徹夜で疲れているときも、行く前はぼろぼろに疲れていて「さすがに今日は休もうかなあ」と迷うこともありましたが、そんな時でも道場で稽古をすれば、かえって体が楽になるし、頭もすっきりすることを知っていたので、行くことにしていました。
とはいえ「体がよくなる、強くなれる」というモチベーションだけでは、僕はここまでこの武術を続けていなかったでしょう。では何が面白くて10年近くも続けたのかというと、先程もちらりと触れましたが、この武術の中に本質的な“何か”があると感じていたからです。

「型」を退け、ただただ自分の「芯」を意識して、一瞬ごとに変化する芯を追い続ける。すると自分をつかんでいる相手が為す術もなく倒れていく” というところに何かを感じ、惹かれていたのだと思います。


$心のクセに気づくための覚技研究会主宰★新海正彦-熊本の空■「芯を追い続ける」って何のことデスカ?
さて、「自分の芯を追い続けるって、何?」という疑問を抱いている方も多いことでしょう。
これは現実には自分の体で直接に体感してみないと本当にはわからないものなのですが、あえてここでこの武術が一体何をしているのかということを、スローモーション風に説明してみますね。


[Bu-jyu-tsu in the sky]Photo by Shinkai

わかりやすい例として、「2人が向かい合って立ち、一方が片手で相手の腕をつかむ」というもので説明します。
この状態のとき、その腕から逃れたいとすると、あなたはどう動くかということを考えてみてください。ごく普通には、まず人はつかまれた腕を力尽くで振りほどこうとします。全身の力を総動員して腕を引っ張ったり、体を引いたり、ひねったりします。でもたいていの場合、腕は放せません。
では僕がやっていた武術ではどう対処するのか?

・まず力で振りほどこうとすることをせず、できる限り脱力して立ちます

・次に自分の芯を丁寧に感じます。芯を感じるとは、言い換えればグラグラせず、自分の体がしっかり安定していることを感じるということです。脱力した状態で、なおかつ安定した状態を保っているかということを感じ続けるのです。

・この時、相手に腕を「つかまれている」というより、「つかませている」と考えます。「つかまれている」と考えると相手が主役ですが、「つかませている」と考えると自分が主役になるからです。単なる気持ちの持ち方の違いのように思えますが、これが大きく動きに影響します。

・もう一つ、つかませた腕は「相手と関係する大事な接点である」と認識し、“芯の延長”として感じ続けることも重要です。なぜなら自分だけで立っているときとは異なり、腕をつかまれると当然相手の位置や力のかけ方によって自分の芯の位置は刻々と変化するからです。相手との接点を意識し、そこから伝わってくる力の大きさや方向の変化を芯で感じて自分の重心を調整し、芯を保ち続ける。これが一番のキモとなります。

・このように自分は脱力し、相手は力を入れて腕をギュッとつかんでおり、相手から伝わってくる力の変化に対応して、ただただ自分の芯を追い続け安定させていくという動きをやり続けると、有利なはずの相手が逆に不安定になります。そして動きにくくなった相手はついに立っていられなくなり、最後には為す術もなく倒れてしまうのです。

・この一連の動作は、「芯」を意識し続けられさえすれば、スローモーションのようにゆっくり動いても、速く動いても同じようにできます。力でも速さでもないということです。

要するに大切なのは、つかまれたところを通して「自分の芯」を意識し続けること。
この一点です。つかまれたところを何とかしようとしないということが大切です。


■日常こそ練習の場~湯飲み茶碗を持っても芯を取る!
先にも書きましたが、私たちは腕をつかまれると、反射的につかまれたところを何とかしようと考えてもがきます。つかまれたことが問題だと思っているので、“そこ” をなんとかしなければ、にっちもさっちもいかないと反射的に考えてしまうからです。
でもこの武術では、「つかまれたところに問題はない」と考えます。つかまれたところに気をとらわれるのではなく、代わりに新たな体の習慣として「芯」の方に意識を向けて動けるように稽古しましょうというのが、僕が習っていた武術なのです。

こんな武術でしたから、日常の所作のなかで体の動きがしっかりできていなければ(つまり日常のあらゆる動きの中でも芯が取れていないと)、その先の高度な武術的な動きなんてできっこないという状態になりました。
たとえば湯飲み茶碗を手に持ったとしても、その重みや腕の位置の変化で自分の芯の位置は変わりますから、本来は重心を微調整しなければなりません。湯飲み茶碗を持つという簡単な動きの中ですら芯を取れないとしたら、この武術の上達は望めないのです。
だから僕の中では、日常の動作一つ一つに対して意識を持ち、自分の芯を調整し続けるということが必要不可欠な当たり前の習慣となっていきました。
日常こそ本番。日常的に、何をするにも体の芯を意識していると、稽古でも上手くいきます。道場でだけやろうとしても無理なのです。道場は日常の所作のなかでどれだけできているかという結果を武術で試すだけ、とも言えるでしょう。

■エポックメイキング的なボディーワークとの出会い
そんなある日、古くからの友人の叔母さんが、立ち居振る舞いを含めた動きについてのボディワークをやっているという話を聞きつけ、興味を持って彼女のワークを受けてみました。
するとワークを受けた後の体の感じが、僕が武術で上手く動けているときの体の感覚に近いことがわかって驚きました。

そこでこう僕は考えました。
「ということはつまり、僕が武術で気づき身につけたことは、ボディワークや他の観点から捉えなおせば、長い武術の稽古をしなくても容易に身につけることができるものなのかもしれない」

以後、友人の親戚というご縁もあり、その後、5年以上そのボディワークを続けることになったのですが、これをきっかけにいくつか他のボディワーク、解剖生理学なども学び始めて、意識と体の関係にどんどん興味が広がっていったのでした。
そしてさらには心と体について、心理療法の領域へ目を向けていくことになっていったのでした。
(TO BE CONTINUED!)・・・って長すぎ?!

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