大下容子さんの「ワイドスクランブル」をたまたま観ていて。
「二重被爆者」という言葉を初めて聞いた。
その言葉の通り、広島と長崎で被爆した方の事を指す言葉だ。
その数ははっきりしない(当時被爆者は言われもない差別や中傷を受けていたから)けど、100人を超える方がおられたらしい。
山口 彊さん。当時広島に仕事で訪れていて被爆。
左半身にかなりの火傷を負われたそうだが、それでも故郷の長崎に必死の思いで帰郷されて、そしてやっとの思いで帰ってきた長崎でも被爆されて・・・
山口さんが生前(2010年に亡くなられています)おっしゃっていた言葉。
「私は広島で地獄を見ました。長崎で2度目の地獄を見ました」
《大広島 炎(も)え轟(とどろ)きし朝明けて 川流れ来る人間筏(いかだ)》
この短歌を言葉にした後、山口さんは号泣されておられた。
川に流れてくる無数の・・・尊い亡骸。
山口さんは亡くなるまで、全国各地を回って「原爆の悲惨さ」を伝える為に講演しておられたという。
長崎には被爆した楠木があります。山王神社というところにしっかりそびえ立っていた、樹齢500年を超えるという立派な木。
爆心地からわずか800m。被爆した後のその様は、例えようもなく酷かった。
近くにあった鳥居は片側だけが残り、楠木は枝は削がれ幹は焼かれ、もちろん葉はなく、もう死んでしまったような光景でした。

ところが2年後、その楠木は再生し、葉を芽吹いた。その有様は神々しかったと。
途中、シロアリなどに浸食されて、30年ほど前には幹に170cmほどの大きな穴があいて、倒壊の危機すらあったという。
それを地元の有志の方々が必死にカンパを募って修復された。

福山雅治さんは、学生の頃何度となくここに訪れておられたそうです。
「自分はここにいて何ができるんだろう?」
それから幾年月。福山さんは自分が思い悩んで何度も訪れたこの楠木の事を考えたそうです。
「人からの目線じゃなくて、違う目線で書いてみたかった」
ちょっとニュアンスは違うかもしれません(間違っていたらごめんなさい)が、確かそんな風におっしゃっておられたと思います。
この「クスノキ」は元々ピアノだけで歌うつもりでおられたそうなんですが、色々な声があり、プロジェクトの声も上がり、そして「合唱曲」として新たな編曲を経て、そして。
こんな風に新しい芽吹きが。
こうして、どんどん伝えて行かなきゃいけないんですよ。
僕らだって決して若くはない。
次の世代に、次の若い人達に。
「昔こんなコトがあったんだよ」って。
もう、福山雅治、リスペクトしかない。
あ、呼び捨てにしてごめんなさい。
遠い昔。添乗員をやっていた頃。
長崎のバスガイドさんは必ずこの歌を歌って、伝えてくれていた。
この歌は、一生忘れない。
今、その山口さんのご子孫と、原爆を落とした人のご子孫が、互いに手を取り合って「原爆阻止」の活動をされておられるそうです。
どうかその活動に未来あれ。
何ができるか分かりませんが、僕もその一員であれたらと思います。
原爆を2回も落とす決定をしたトルーマン。
それをゴリ押ししたレズリー・グローヴス。
原爆を作りながらも苦悩したオッペンハイマー。
そして、盗人スターリン。
そのことはまたいつか書きます。