前回に続き、”古墳状”の続きです。
人口増加の対策として、目の前に広がる湿地帯を新田開発の一環として
作られた築山が、”古墳状”であると前回記しました。
”古墳状”の築造が始まった頃の都は明日香だった!ので
多くの人が生活している
近い場所が新田開発の対象地と考えるのが
妥当です。
実際、明日香村、橿原市、桜井市には
円墳、方墳が多く存在します。それも円墳では直径10~15mの小規模のものです。
技術も次第に高まり、段々高度な技術を要する前方後円墳へと発展し、規模も大きくなっていきました。(古墳分布について詳しく知りたい方は下記参照)
また、”古墳状”の周りには堀がセットで作られて
いくのですが、掘りに水が集まれば周囲の土地は田んぼとして利用できるように
なるからです。
だから、湿地帯の”古墳状”の周りには堀が必要不可欠な要素です。
築造には、労力・資金と時間がかかるので、「時の権力者の墓としようよ!」
ということで、
後付けで墳墓化していき、水のない山(丘)にも築かれるようになりました。
高松塚古墳やキトラ古墳などです。
一方で、湿地帯が広がる大阪府の百舌鳥古墳群、古市古墳群や奈良県の大和古墳群、巻向古墳群、佐紀盾列古墳群など
新田化するため、地域一帯に多くの前方後円墳が
造られました。
しかし、下図(古市古墳群)をご覧ください。
もし、これら大規模な”築山”が墳墓なら「吉、方向」に造られる筈ですが
方向はバラバラです。
一部は墳墓化しても、この地域ではまだ新田開発の一環として築かれたもの
として考えるのが自然だと思いますが…。
土木工事としての築山だったら形状は単純な方が良い訳で
初期の形状は、円だったと考えられます。
中心に杭を打ち、適当な長さの縄を持ってぐるりと一回りすれば
円は描けます。
多くの”築山状”の外側には堀があります。遠くから泥を運ぶのは造った水路を小舟で運ぶためのもの。テラス状の部分は堀から運び上げた泥を水平に運ぶための通路。
円の周囲に石を積み上げ、掘った泥を運び入れれば良いのですが
水分を含んだ泥は、だらだらと流れてしまいます。
そこで、埴輪の登場です。
「埴」とは、柔らかい土、又は粘土(広辞苑)、「輪」は上から見れば円形
つまり、円筒形に作ったもの。
この円筒形の焼き物に、泥を入れて運搬は出来ても、すぐに水がなくならない。
そこで筒の脇に穴をあけ、水抜きをする。
埴輪は掘り上げた泥の運搬と水抜きのための器具
だったのです。
これが、二つ目の発見でした。
上部は、”じょうごう”のように、口を広くし泥を入れやすくなっています。
泥から粘土状になった土を積み上げ、築山が完成すると、記念としてか、使えなくなった
かは分かりませんが、周囲に並べられたのです。
墳墓として定着してから「家型」「人型」「鳥や馬型」などが並べられるように
なったのですが
「人型」については、無事に完成できるよう人身御供(ひとみごくう)の代わりに供えられたと言われています。
また、権威の象徴となっていった古墳は、時の政府の禁止命令がでたこと
も要因でしたが、このころ(古墳時代末期)には、全国的に新田開発の終了時期でも
あったことでしょう。