リニー伯ジャン2世の部分を読んで気に
なったジャンヌ・ド・リュクサンブール
についてもう1度調べてみました。
彼女については自分の感情を混ぜない
ために、あえてウィキペディアに書い
てあることだけをここで紹介します。
ジャンヌ・ド・リュクサンブール(?
ー1430年9月18日)は、百年戦争期
のフランスの貴族女性。サン=ポル女
伯およびリニー伯ギーとその妻マオー
ド・シャティヨンの間の娘。捕虜とな
ったジャンヌ・ダルクをイングランド
軍へ引き渡そうとした甥のボールヴォ
ワール領主ジャンに反対した。
フランス王シャルル6世の王妃イザボー
ド・バヴィエールに侍女として仕え、
王妃の末息子シャルル7世の洗礼の代母
も務めた。生涯独身を通し、人々には
「リュクサンブール嬢と呼ばれた。
1430年当時は、甥のボールヴォワール
領主ジャンが所有する居城のボールヴォ
ワール城に同居していた。ブルゴーニュ
軍の捕虜となったジャンヌ・ダルクが
同年7月11日に居城に身柄を預けられ
ると、甥の妻ジャンヌ・ド・ベテューヌ
らと共に彼女の身の回りの世話をした。
8月4日、兄ワレラン3世の孫にあたる
ブラバント公フィリップ・ド・サン=
ポルが子供のないまま死ぬと、相続協
定に基づいてジャンヌがフィリップか
らサン=ポル伯とリニー伯領を継承し
た。ジャンヌの相続人は甥のブリエン
ヌ伯ピエールであったが、彼女はピエ
ールの弟で同居するジャンの方を可愛
がっており、兄にサン=ポル伯領を、
弟にリニー伯領をそれぞれ分与するこ
とを決めた。ジャンヌは捕虜ジャンヌ・
ダルクの世話をするうちに彼女に好感
を抱くようになり、甥ジャンがジャン
ヌ・ダルクをイギリス軍に引き渡すこ
とに反対し、身柄を引き渡せばリニー
伯領の相続を白紙に戻すとほのめかし
た。
9月初旬、毎年の習慣だった弟ピエー
ル枢機卿の墓参りのためアヴィニョン
に向い、9月18日に同地で没した。
甥ジャンは伯母の死でリニー伯領を
獲得すると、まもなくジャンヌ・ダル
クをイングランド側に引き渡した。