ハインリヒ(7世) | 過去世からのメッセージ

過去世からのメッセージ

前世療法で見た過去世の話しを中心に綴っていきます

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内容と直接関係ないリェイダの城の写真です。

 

皇帝フリードリヒ2世の長男ハインリヒの悲劇的な生涯(父に対して

反乱を起こし、廃位されて目を潰され、6年後に護送の途上で乗馬

とともに断崖から落ちて絶命する)については前から知っていました

が、特に何も感じませんでした。でも彼の母がアラゴンの王女である

ことを知って(ラミロ2世の孫の孫にあたる)他人とは思えなくなり、い

ろいろ調べてみました。ウィキペディアを参考にまとめます。

 

ハインリヒ(7世)の母コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャは

アラゴン王アルフォンソ2世とカスティーリャの王女サンチャの娘とし

て1179年に生まれた。1198年にハンガリー王イムレ1世と結婚し2人

の間にはラースロー3世が生まれた。イムレは1204年に死去し、ラー

スローが幼くして王位を継承したが、翌1205年にイムレの弟アンドラー

シュ2世によって廃位された。コンスタンサとラースローはオーストリア

公レオポルト6世の許へ逃れたが、間もなくラースローは死去し、コン

スタンサはアラゴンへ帰国した。

 

のち、1209年にシチリア王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃

となった。フェデリーコは1215年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と

なった。フェデリーコとの間にはハインリヒが生まれた。ハインリヒは

コンスタンサの生前にローマ王位に就けられていたが、コンスタンサ

の死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年にアプーリアに

護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。

 

コンスタンサが2人の夫それぞれとの間にもうけた息子たちは、いず

れも嫡男として生まれて父王の後継者とされながら、終わりを全うす

ることができなかったことになる。

 

ハインリヒ(7世)は1211年にフリードリヒ2世とコンスタンサの子と

してシチリア島で生まれる。1212年に皇帝オットー4世の対立王に

選出されたフリードリヒ2世がシチリア島を発つ際にハインリヒがシ

チリア王位に就けられ、コンスタンサが摂政とされた。フリードリヒ

2世がアーヘンで皇帝に即位した後、ハインリヒはコンスタンサと

ともに帝国に移住する。1217年にハインリヒにシュヴァーベン公位

が授与され、1219年にはブルゴーニュ王国の執政権が移譲された。

 

フリードリヒ2世はローマ王が持つ特権の放棄を諸侯に約束し、その

代償として1220年の春のフランクフルトの帝国会議でハインリヒが

ローマ王に選出される。フリードリヒ2世は皇帝即位に際して皇帝

権力とシチリア王位の一体化の断念を約束していたが、彼の後継者

であるハインリヒがローマ王とシチリア王を兼任したことでシュタウ

フェン家の下での帝権と王権の一体化が実現する。ケルン大司教

エンゲルベルト、バイエルン公ルートヴィヒ1世の保護に置かれた後、

1228年からハインリヒは親政を開始する。しかしハインリヒはフリー

ドリヒ2世から完全に独立した状態で政務を執ることができず、ハイン

リヒの立場は属州の総督に例えられている。

 

ハインリヒが20歳に達した頃には、父のフリードリヒ2世と不仲であ

ることが知れわたっていた。ハインリヒがフリードリヒ2世の政策に

疑問を抱いた理由としては、イタリアでの王権強化策とアルプス以

北の諸侯の地位を尊重する相反する姿勢、親子のカトリック信仰心

の差異、帝国の財政難が挙げられている。またハインリヒはボヘミ

ア王国の王女アネシュカとの結婚を望んで、既に子をもうけていた

妃のマルガレーテとの離婚を考えていたが、ハインリヒの計画はマ

ルガレーテの実家であるオーストリア公国との婚姻関係の構築を

志向するフリードリヒ2世の意向に反するものだった。アネシュカが

修道女となったことでこの問題は決着がついたが、父子の間には

わだかまりが残った。リエージュの市民と司教の間に諍いが起きた

時、ハインリヒは市民の側に立ったため、帝国諸侯の反発を招いた。

1231年に諸侯の主導で開催されたヴォルムスの集会で、ハインリヒ

は「諸侯の利益のための定め」を発布した。「諸侯の利益のための

定め」によって既にフリードリヒ2世が聖界諸侯に与えていた特権の

多くが世俗諸侯に拡大され、ローマ王健は制限される。

 

フリードリヒ2世はハインリヒとの話し合いが必要だと考え、ハインリ

ヒに1231年11月のラヴェンナでの帝国会議への出席を求めるが、会

議の場にハインリヒは姿を現さなかった。周囲に促されたハインリヒ

は1232年のアクイレイアの帝国会議に出席し、10数年ぶりにフリー

ドリヒ2世と対面するが、父子の立場からは叱責を、皇帝と王の立場

からは多くの要求を受けた。数週間後に帝国会議の場はチヴィダーレ

に移され、会議の場でハインリヒは帝国諸侯と教皇への従属を約束

させられた。

 

教皇庁の働きかけに応じ、1234年にハインリヒはロンバルディア同盟

と結託して反乱を起こした。1234年9月、シチリアにいたフリードリヒ2

世が帝国に向かったことを知ったハインリヒは、反対派の人間を集め

てアルプスの峠の封鎖を試みた。しかし、ハインリヒの味方はミニステ

リアーレスのみで、ハインリヒを支持する諸侯は皆無であり、同盟者で

あるロンバルディア同盟の軍隊も防衛戦を得意としていても侵略戦は

不慣れだった。フリードリヒ2世は軍隊を伴わずアルプスを越え、財貨

を投じて反乱を解決した。1235年7月2日にハインリヒはヴィンプフェン

の王宮に出頭し、フリードリヒに降伏する。7月4日のヴォルムスの帝

国会議で、ハインリヒは王位と全財産を没収された。ハインリヒが廃

位された後、弟のコンラートが新たなローマ王に即位する。

 

ハインリヒはハイデルベルクに拘禁された後、目を潰されアプーリア

に移送された。ハインリヒはメルフィ近郊のロッカ・サン・フェリーチェ

の獄中で6年間過ごし、ニカストロに移されることになるが、護送の

途上で乗馬と共に断崖から落ちて絶命した。ハインリヒの死は事故

ではなく、彼の意思による自殺だと考えられている。ニカストロへの

移送の前、フリードリヒ2世はハインリヒの赦免を決定していたとも

伝えられ、父としてはその非業の死を悼んだという。

 

人物としては曖昧で移り気、無計画な性格の持ち主で、こうした性格

による政策が帝国諸侯との対立を招いたと言われている。ハインリヒ

はフリードリヒ2世が持っていた詩歌に対する感性を受け継いでいる

と言われ、喪失した王位の紋章を奪われるときも歌うことを止めず、

「朝に歌い夕に泣いた」と伝えられている。

 

アプーリアの城に移送されるとき、前述のようにハインリヒの目は潰

されていたと伝えられている。ハインリヒの遺体には金銀が織り込ま

れ、鷲の翼の模様の衣服が着せられてコゼンツァの教会の石棺に

埋葬された。1998年にピサ大学とカラブリア大学の研究チームによ

ってコゼンツァのハインリヒの遺骨の調査が実施され、ハンセン病の

患者に共通する特徴が確認された。ハインリヒは死の数年前にハン

セン病に罹り、死の直前のハインリヒの容姿は強制的な隔離を要す

るほどに悪化していたと推定されている。

 

1225年11月25日、ニュルンベルクでバーベンベルク家のオーストリア

公レオポルト6世の娘マルガレーテと結婚したが、二子はいずれも

早世した。ハインリヒの死後、マルガレーテはオタカル2世と再婚し

た。

 

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ハインリヒ(7世)の人生はラミロ2世の数多い子孫の中でもとりわけ

複雑で悲惨だと思いました。子供の時に王位を与えられて皇帝で

ある父とは離れて暮らしている、反抗心が芽生えるのも無理ないで

す。でも不満を抱くのと実際に反乱を起こすのは大きく違い、その

きっかけを作ったのが教皇でした。おそらく父子を対立させて皇帝

の力を弱めようとしたのでしょうけど、その後のハインリヒの人生は

目を潰され最後は自ら死を選ぶなどあまりにも過酷です。遺体は

丁寧に埋葬されたのがせめてもの救いですが、ドイツ、シチリア、

アラゴン、カスティーリャなどいくつもの王家の血筋を受け継いだ

高貴な生まれとたくさんの称号をもちながらも人生を狂わせられ

ています。反乱を起こして何もかも失いながら過ごした6年間がど

んな気持ちだったのか、とても痛ましいです。