「いいとも!」、「ひょうきん族」… バラエティ礎築いた横澤彪さん死去
J-CASTニュース 1月9日(日)21時12分配信
フジテレビの元ゼネラルプロデューサーで、「笑っていいとも!」「オレたちひょうきん族」など人気バラエティ番組を手がけた横澤彪(よこざわ・たけし)さんが2011年1月8日、亡くなっていたことがわかった。73歳だった。コント仕立てのドラマや他番組のパロディなど今あるバラエティ番組にも通じる「王道」を築いたのが横澤さんだった。
■フジ「笑っていいとも!」の初代プロデューサー
1962年にフジテレビに入社した横澤さんが注目されはじめたのは1980年、その後も定期的に続いた特番「THE MANZAI」を手がけたことから。番組からはツービート(ビートたけし、ビートきよし)や島田紳助・松本竜介らを輩出し、漫才ブームを仕掛けた。1981年には「オレたちひょうきん族」がスタート。コント仕立てのドラマや他番組のパロディなどハプニングありリアクションありの番組で成功し、約8年半続いた番組の平均視聴率は17.8%だったという。
そして翌1982年にはじまったのが、お昼のバラエティ番組「森田一義アワー 笑っていいとも!」だ。今なお続く超長寿番組の礎を築いたのも、初代プロデューサーの横澤さんによる部分が大きい。その後、1995年にフジテレビ退社してからは吉本興業役員として東京支社長、専務取締役も歴任した。
ところが2006年、医師から悪性リンパ腫を告げられ、一時は入院し抗がん剤の治療も経験。ここ1年ほどは定期的な治療に通っていたが、無理はできないとはいえ日常生活に大きな支障はなく、年明け後も人と合って比較的元気そうだったという。だが、亡くなる前日に肺炎をこじらせ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
■人に弱々しいところを見せなかった
生前の横澤さんを、J-CASTニュース発行人で大学時代からの親交があった蜷川真夫氏は「電話に出るときはいつも、はっきりとした声だったのが印象的。彼はどんな時でも決して、弱々しいところを見せなかった」と振り返る。
誰に対しても腰が低く、抗がん剤治療の苦しい時期でさえ態度はかわらなかったのだという。人への気遣いが自然とでき、決して威張らないところがあった。お笑い芸人をはじめとする多くの人と親しくつきあい、慕われていたのは横澤さんの人柄にもよるのだろう。
最近のテレビ番組に対しては、「タレントに頼りすぎだ」とこぼしてもいた。自身がプロデューサー出身だっただけに、番組を指揮するプロデューサーは「どういう番組を作りたいか」を考えるべきで、人気のタレントをひな壇に並べ、視聴率を取ってしまのはテレビ番組の衰退。こういう番組で、こういう企画だから、このタレントを起用したい――タレントを上手く起用することがプロデューサーの腕の見せどころであり、醍醐味だということを話している。テレビ業界のことを最後まで厳しく、それでいて温かく見つめていた。
連載中のコラム「チャンネルGメン∞」(2010年12月30日)でも2011年のお笑い芸人のこれからを占ってもらったが、その中で横澤さんは「若手・中堅のお笑い芸人にとって、本業の漫才やコントで力を養い、蓄える年」「そろそろたけし、タモリ、さんまらを乗り越える中堅が出てきて欲しい」などと語り、若い才能に対し発破をかけたばかりだった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110109-00000003-jct-ent
元フジテレビゼネラルプロデューサー 横澤彪氏死去
産経新聞 1月9日(日)23時36分配信
元フジテレビゼネラルプロデューサーの横澤彪(よこざわ・たけし)さんが8日死去したことが分かった。73歳だった。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日午前11時から東京都大田区池上1の1の1、池上本門寺で行われる。喪主は妻、雅子(まさこ)さん。
昭和37年に東大文学部を卒業し、フジテレビに入社。ビートたけしさんや明石家さんまさんらとともに「オレたちひょうきん族」や「笑っていいとも!」など、お笑いブームを仕掛けた。平成7年にフジテレビを退社、吉本興業に入社し東京本社代表などを歴任した。その後、鎌倉女子大教授などを務め、最近はフリーで執筆活動などをしていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110109-00000557-san-ent
バラエティーの一時代を築いた名プロデューサーがまた一人。。。
心よりご冥福をお祈りします。
J-CASTニュース 1月9日(日)21時12分配信
フジテレビの元ゼネラルプロデューサーで、「笑っていいとも!」「オレたちひょうきん族」など人気バラエティ番組を手がけた横澤彪(よこざわ・たけし)さんが2011年1月8日、亡くなっていたことがわかった。73歳だった。コント仕立てのドラマや他番組のパロディなど今あるバラエティ番組にも通じる「王道」を築いたのが横澤さんだった。
■フジ「笑っていいとも!」の初代プロデューサー
1962年にフジテレビに入社した横澤さんが注目されはじめたのは1980年、その後も定期的に続いた特番「THE MANZAI」を手がけたことから。番組からはツービート(ビートたけし、ビートきよし)や島田紳助・松本竜介らを輩出し、漫才ブームを仕掛けた。1981年には「オレたちひょうきん族」がスタート。コント仕立てのドラマや他番組のパロディなどハプニングありリアクションありの番組で成功し、約8年半続いた番組の平均視聴率は17.8%だったという。
そして翌1982年にはじまったのが、お昼のバラエティ番組「森田一義アワー 笑っていいとも!」だ。今なお続く超長寿番組の礎を築いたのも、初代プロデューサーの横澤さんによる部分が大きい。その後、1995年にフジテレビ退社してからは吉本興業役員として東京支社長、専務取締役も歴任した。
ところが2006年、医師から悪性リンパ腫を告げられ、一時は入院し抗がん剤の治療も経験。ここ1年ほどは定期的な治療に通っていたが、無理はできないとはいえ日常生活に大きな支障はなく、年明け後も人と合って比較的元気そうだったという。だが、亡くなる前日に肺炎をこじらせ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
■人に弱々しいところを見せなかった
生前の横澤さんを、J-CASTニュース発行人で大学時代からの親交があった蜷川真夫氏は「電話に出るときはいつも、はっきりとした声だったのが印象的。彼はどんな時でも決して、弱々しいところを見せなかった」と振り返る。
誰に対しても腰が低く、抗がん剤治療の苦しい時期でさえ態度はかわらなかったのだという。人への気遣いが自然とでき、決して威張らないところがあった。お笑い芸人をはじめとする多くの人と親しくつきあい、慕われていたのは横澤さんの人柄にもよるのだろう。
最近のテレビ番組に対しては、「タレントに頼りすぎだ」とこぼしてもいた。自身がプロデューサー出身だっただけに、番組を指揮するプロデューサーは「どういう番組を作りたいか」を考えるべきで、人気のタレントをひな壇に並べ、視聴率を取ってしまのはテレビ番組の衰退。こういう番組で、こういう企画だから、このタレントを起用したい――タレントを上手く起用することがプロデューサーの腕の見せどころであり、醍醐味だということを話している。テレビ業界のことを最後まで厳しく、それでいて温かく見つめていた。
連載中のコラム「チャンネルGメン∞」(2010年12月30日)でも2011年のお笑い芸人のこれからを占ってもらったが、その中で横澤さんは「若手・中堅のお笑い芸人にとって、本業の漫才やコントで力を養い、蓄える年」「そろそろたけし、タモリ、さんまらを乗り越える中堅が出てきて欲しい」などと語り、若い才能に対し発破をかけたばかりだった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110109-00000003-jct-ent
元フジテレビゼネラルプロデューサー 横澤彪氏死去
産経新聞 1月9日(日)23時36分配信
元フジテレビゼネラルプロデューサーの横澤彪(よこざわ・たけし)さんが8日死去したことが分かった。73歳だった。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日午前11時から東京都大田区池上1の1の1、池上本門寺で行われる。喪主は妻、雅子(まさこ)さん。
昭和37年に東大文学部を卒業し、フジテレビに入社。ビートたけしさんや明石家さんまさんらとともに「オレたちひょうきん族」や「笑っていいとも!」など、お笑いブームを仕掛けた。平成7年にフジテレビを退社、吉本興業に入社し東京本社代表などを歴任した。その後、鎌倉女子大教授などを務め、最近はフリーで執筆活動などをしていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110109-00000557-san-ent
バラエティーの一時代を築いた名プロデューサーがまた一人。。。
心よりご冥福をお祈りします。
面白い人・頭のいい人の自己アピール術 (新講社ワイド新書)/横澤 彪![]() ¥840 Amazon.co.jp | テレビの笑いを変えた男横澤彪かく語りき/横澤 彪![]() ¥1,995 Amazon.co.jp | それでも「人と会おうよ」 (新講社ワイド新書)/横澤 彪![]() ¥900 Amazon.co.jp | テレビの貧格/横澤 彪![]() ¥1,470 Amazon.co.jp |
![]() ![]() ![]() |