宮田征典さん:球史に名を刻んだ“8時半の男”
“8時半の男”。戦後のプロ野球から生まれたニックネーム中、最高傑作の一つだろう。その名コピーとともに球史に名を刻んだ元巨人投手、宮田征典さんが13日、66歳の若さで亡くなった。
宮田さんの功績は「投手=先発完投」という考えが中心だった日本球界に、リリーフ投手の重要性を認識させたことだ。
キャリアの頂点は65年。この年の巨人は金田、城之内ら主力投手の調子が上がらず、特に試合終盤に失点することが多かった。そこで川上監督は、持病の心臓疾患のため長いイニングを投げるのが難しかった宮田さんを、抑え投手に起用した。
宮田さんの特徴は打者をじらす長い間合いと絶妙の制球、そして揺れながら落ちる独特の変化球「ミヤボール」。この年はシーズン140試合の約半分、69試合に登板して20勝5敗。そのうち救援で19勝を挙げた。当時はセーブ制度がなかったが、現在の方式で計算するとセーブ数は「22」、セーブポイント(勝利とセーブの合計)は「41」になる。この活躍に助けられ巨人は優勝、リーグ9連覇の第一歩を踏み出した。
当時のリリーフ投手は現在のような1回限定ではなく、2回や3回を投げることはザラだった。65年の宮田さんの投球回数は164回3分の2。98年に優勝した横浜で45セーブを挙げた「大魔神」佐々木の投球回が56回だったのだから、その過酷さがわかる。
登板過多は宮田さんの肉体をむしばみ、翌66年に肝臓疾患で入院。その後も肩、ひじを故障し、選手寿命は8年間と短かった。引退後は名投手コーチとして活躍、中日・川上、巨人・上原の両エースも、新人時代に宮田さんの指導を受けている。
巨人コーチ時代、色紙にサインを求められると、自ら必ず「八時半の男」と書き添えていた。実質わずか1年間の活躍だったが、その思い出は宮田さんにとって大きな誇りだったのだろう。昭和のプロ野球を彩った個性派が、また一人、いなくなった。【神保忠弘】
▽中日・川上 (1年目に中日投手コーチの宮田氏から指導を受ける)入ったばかりで不安いっぱいだった自分にプロ野球選手として、たくさんのことを教えて下さいました。今も感謝の気持ちでいっぱいです。ご冥福をお祈りします。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060714k0000m050044000c.html
Yomiuri Giants Official Web Site - 宮田征典(1962~1969)
http://www.giants.jp/G/museum/history/retsuden/miyata.html
宮田征典 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E7%94%B0%E5%BE%81%E5%85%B8
宮田 征典 (みやた ゆきのり)戦跡
http://www.mg-fighters.net/fs/jinmei/player/ma_gyo/y_miyata.htm
中京テレビ - アナウンスルーム(番組写真)
http://www.ctv.co.jp/announce/photo/2001/12/ex2402.html
http://www.ctv.co.jp/announce/photo/2001/12/ex2403.html
66歳・・・若いよ・・・
まだまだ若手に教えていただけるものがあったはず。
あの ちょっとはにかんだ感じの笑顔がステキだった
ご冥福をお祈りします・・・
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