今日は高知城にやってきました(^^)/~~~
 
高知城(こうちじょう)は、高知県高知市にある日本の城。瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ているとして、鷹城(たかじょう)とも呼ばれる[1]。

江戸時代には土佐藩の藩庁が二の丸御殿に置かれた[1]。江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の一つ[1]であるほか、本丸御殿や追手門等が現存する[注 1]。城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。四国八十八景27番。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
こちらは山内一豊さまです↓
山内一豊は、天文14(1545)年、尾張国葉栗郡黒田(岩倉ともいわれる)に生まれた。

父の盛豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老で、黒田城を任されていたが、弘治3(1557)年、織田信長の手のものに襲撃されて討ち死にしたとも、永禄2(1559)年、織田信長に攻められ岩倉城で討ち死にしたとも言われている。以後、一豊は母とともに流浪の生活を送ることとなった。

一豊は流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、織田信長の家臣であった秀吉に仕え、信長の越前朝倉攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられた。

また、本能寺の変で信長が死去し秀吉の天下となると、そのもとで数々の功績を重ね、天正13(1585)年に近江長浜2万石、天正18(1590)年に遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営に手腕を発揮した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し土佐一国を与えられた。

当時の土佐は、長宗我部氏の除封による混乱の状態にあったため、土佐受取りのため井伊直政の家臣2人が一豊の弟、康豊とともに派遣された。

長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしたが、派遣軍はこれを武力によって鎮圧する一方で、康豊は旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開した。

一豊は慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月2日に甲浦に上陸、8日に浦戸城に入城した。
 
 
「国賓高知城」・・・歴史を感じさせます(^_^;)
 
 
 
ひとつひとつの石垣がとても大きい印象です。
 
 
天守閣・・・南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものといわれている。創建時のものは享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に復元されたもので、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとっている。

独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもある。窓は突上窓と連子窓、天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられており、このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられるものであるという[4]。

平面寸法は、初層と2層を総二階造りで8間×6間、3層と4層を4間四方とし、5層と最上層は3間四方である。高さは18.5m。国の重要文化財に指定されている。『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
土佐ゆかりの偉人がこちらの掲示板に集められています(^_^)
 
 
高知大神宮にも参拝をm(_ _)m「幸せを呼ぶものごとの始まりの神様」「繁栄と幸せの神様」として信仰を集め、新生児の名付、起工式、開店・開業式、婚礼式、厄除、交通安全、先祖祭などで有名な神社です
 
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