こんにちは、滝川市の元気印、声楽家の高橋江海子です!
お盆で忙しく、なかなかブログ更新できずでした(>_<;)
しかしこれだけは今日、話しておきたいと思います。
最近、父と祖父から聞いた実話です。
私の曾祖父、つまりひいおじいさんは私の父が生まれる前から右目を失明していました。
どうして、失明したのか。
その理由に残された私たちが深い感銘を受けることになるとは、誰も思いませんでした。
祖父も父も、つい先日あった祖父の姉のお葬式で初めてその真実を知ることになります。
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曾祖父は赤ちゃんの頃に当時日本で流行っていた移民としてカナダに移住し、10代までカナダで暮らしていたそうです。
そのせいが、日本に帰ってからは日本人らしい男性とは違うオープンな性格で周囲からは少し浮いていたとか(笑)
そして帰化した後は千葉の富津で大工になります。
そしてあの戦争が始まりました。
カナダ育ちだった曾祖父は、日本では珍しい洋服や革靴を子どもの頃から着ていたので、敵国の文化物だと後ろ指を指されてそれらを隠したり捨てなければならなかったそうです。
英語が話せることも、ひた隠しにしていました。
カナダの友人との手紙のやり取りもできなくなりました。
そして戦争が激化した頃、
周りの人達に赤紙(召集令状)が届き始めます。
この時、曾祖父はカナダの幼い頃の友人達が兵士として投入されていることも知っていました。
『友だちと殺し合いなどしたくない』
『戦争に行くことだけが家族を守ることなんかじゃない』
と、自らの右目を大工道具で突いたのです。
そして召集令状を免れました。
小学生で長男だった祖父は
『仕事の事故で失明した』と聞かされており、79歳になった今まで知らず、
それどころか、戦争教育を受けていた祖父は戦争に行かない父を
『お国に命を捧げない恥ずかしい父』だとすら思っていました。
戦争が終わるまで、自分の父親がバイリンガルだということも全く知らなかったそうです。
そして72年前の今日。
日本は戦争に負けました。
その後すぐアメリカの駐在軍が来ることになった時、近所の人たちは
『金目の物を持っていかれるのではないか』
『乱暴されるのでは』
という噂で持ち切り。
しかし曾祖父は
『そんなことは絶対にしない』
『堂々としていろ』と言って怖がる近所の住民に言って回ったそう。
息子であった祖父は、なぜ父親が根拠もなくそんな事を言うのだろうかと不思議に思いました。
そこで初めて、カナダでの生い立ちや友人について曾祖父から聞いたそうです。
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そして現在の2017年。
祖父の姉が亡くなったお葬式でのこと。
父親の失明の真実について、祖父は初めて知ることになります。
『生きてさえいれば』
この真実は、祖父はもちろん、
孫である私の父や曾孫の私に、強烈なメッセージを残してくれました。
失明した右目で、曾祖父は確実にこの国の未来を見ていたのです。
素晴らしい人格者であった曾祖父を持つことができ、私は心から誇りに思います。
今日は72回目の終戦の日。
これからも確実に回数を重ねて、2度と悲劇を繰り返さないこと、友だちや家族を大切に生きることを世界中の人がご先祖さまに誓う日にできたら良いですね!✨