書き手によって

 宝塚歌劇団HPに掲載されていた報告書の内容と遺族側弁護士が出した証拠は、『週刊文春』で書かれてきた記事内容(パワハラと苛め)と一致していました。一方で、報告書には書かれているけれども、『週刊文春』には書かれていない出来事もありました。天彩峰里さんが有愛きいさんを気遣う言葉をLINEで送っていた事は、『週刊文春』には書かれていませんでした。
 
 けれども、書かれていた『週刊文春』の記事を報告書と遺族側弁護士が出した証拠と照らし合わせてみたら、その内容がかなり正確であった事が分かりました。
 
 なので、報告書にあって天彩さんの気遣いの言葉も『週刊文春』は掴んでいたと思いますが、それを書いてしまうと、他との整合性が取れない、悪役として書いている天彩さんが完全な悪役にならないと判断して、その情報を切り捨てて書いたんだと分かりました。事実をどのように並べて伝えるか、嘘を書かずにどのようにして、「悪」と決めた人間を「悪」に見せるように書いていくかを考えて記事を書いているんだなって思いました。
 
 また、大江橋法律事務所による報告書も読んでみて、これはどう見てもパワハラ行為なのに、なんでパワハラだと認定しないんだろうっていう疑問が湧きました。上級生の有愛さんへの罵倒に関しても「伝聞」とか、聞いた人がいて、その人がそういう証言をしているのに、「伝聞」だからパワハラだと認定しないっていうのは、「証言」の意味ってなんだろうって思ったり。
 
  精神的、時間的余裕がない労働環境にあって、自分よりも立場の上の人間に対して逆らえない立場の有愛さんの状況を把握しながら、断れない選択、断ってもそれを実施した上級生の行動は指導の範囲と正当化しているのは、少し上級生よりの感情が入っているなって感じました。
 
 同じ出来事が書いてあっても、どちら側に肩入れしているかで、その表現方法、書き方は変わってきて、登場してくる人物の印象は強く変わってしまうもんなんだなって思いました。また、これは、書き手に限らず、読み手にも言える事で、どちらに対して思い入れ、好意的な感情を持っているかで、書かれている事をどのように受け入れるかの違いにもなっていると思いました。
 

自分が信じたいものは常に正しい

 自分達が好きなもの、信じている者は常に正しいと思っている人にとっては、全ての原因は『週刊文春』のでっち上げ記事に寄るものだと考えている人がXのポストを見ていると感じます。それなのに、報告書に書かれていた事は認めている。(『週刊文春』にも同じ出来事、幹部部屋での話し合い、お声かけをしなかった事による叱責等が書かれていた)
そもそもでっちあげなら、書かれた事実は全く存在しないはずなのに存在していた。違うのは、その行為がパワハラだと認識していないかしているかの違いだけ。
 
 報告書がパワハラではないと結論付けていればパワハラではないと受け取る。報告書にも指導の範囲とあり、パワハラがないと今でも思っていて、Xで発信している人達は、有愛さんが愛ある指導をちゃんと受け取ることが出来なかったと思っている。けれども、報告書を読んでみて、これでパワハラだと認定しないのはおかしいと、上級生擁護寄りの報告書を読んでも、私のように疑問に感じる人もいる。事実と信じたいものの隔離があった時に、人がどのようにしてそれを受け入れるかの違いがあったんじゃないかなって思うんです。
 
 有愛さんはヘアアイロンに関してもちゃんと断り、話し合いでの発言を求められてもそれも断っています。それなのに、断ったのにも関わらず強行したり、話し合いの発言をしないのを認めならがらも話し合いに参加させたりと、嫌がることを実行したのは上級生です。私はこうした行為はパワハラだと感じました。
 

 都合の悪い情報は切り捨てる

 自分の信じたい情報だけ、整合性の取れる情報だけを取って、都合の悪い情報を切り捨てる。『週刊文春』が天彩峰里さんの気遣いをカットしたように、パワハラはないと信じているファンが火傷はよくある事、解像度の低い遺族側の出した火傷の写真を元にして、火傷がたいしたことではなかったと矮小化して、ヘアアイロンの件で火傷の程度が全治一か月だという事実に目を瞑るように、パワハラがあったと受け止めている人達も、なかったと受け止めている人達も、それぞれに自分達に不都合な情報は切り捨てて語っているなっていう印象を受けました。
 
 それから、『週刊文春』に記事が出た事が、有愛さんを苦しめたという意見には、それも一理あるなと思いながらも、その後であの記事がなければ、孤立しなかったとか、幹部部屋への呼び出しがなく、過呼吸になるまで責められなかったという意見に関しては、変だなって思いました。
 
 なぜなら、宙組がパワハラも苛めもない組だったなら、『週刊文春』に書かれたとしても、有愛さんは孤立しなかっただろうし、幹部部屋に呼び出されて過呼吸になるまで責められる(叱責)事もなかったんじゃないかなって思うからです。ヘアアイロンの件に関しても、報告書の通りにちゃんとした謝罪があったなら、天彩さんと笑いながら、「あの時に謝ってもらっているのに」「そうよね、あの時はびっくりして、本当にごめんね」と言い合っていたんじゃないかな、とかって思うんですけれどね。実際はそうではなかった。
 
 ということは、宙組に苛めもパワハラも存在していたんだっていう事になりますよね。それに、3月28日の宝塚歌劇団の会見でパワハラ行為を認めて謝罪をしているのですからパワハラは存在していたんです。存在していたのなら、それを行った加害者も存在している。劇団は加害者という言葉を避けて「パワハラ行為者」と言い換え、それをした人達は悪くなくて、悪いのはパワハラ行為をしてはいけないという事を教えなかった劇団が悪い、なんて言葉遊びで逃げましたけれども、それでも、パワハラは事実としてあったんです。なのに、今でもパワハラも苛めもありませんってXでポストしている人達がいるのが不思議です。
 

人間は一面だけでは語れない

 人間関係というのは単純なものではなくて、とても複雑に入り組んでいて、様々な面を持っています。
被害者であり加害者でもあるのがタカラジェンヌ。今回、パワハラ行為者と特定された人達だって、いい面もちゃんとあって、だからファンだってたくさんいる。それに、加害者とされている人も被害者として報道されていたりもした。心に余裕があって、優しい時もちゃんとあった。
 
 アドバイスをするために自分自身の時間を削っていた。自分の過去の経験から、労う言葉をかけていたのも事実。でも、それ以上に有愛さんを精神的にも肉体的にも追い詰めていたのも事実。問題なのは、加害者1人の行為が些細な行為であっても、それを受け止めるのが有愛さん1人だった事。何人もの攻撃を1人で受けていては、1人の攻撃が弱くても、数が増えたら大きなダメージになってしまうという事。下級生の男役や同期娘役のサポートがあったとしても、長の期の責任者として、上級生からの叱責(パワハラ)を受け止めたのが有愛さんだけだったという事は忘れてはいけないと思います。それを忘れない事で、次の悲劇を防ぐことになるからです。
 
 ただ、私はこのような形で有愛きいさんを利用したくないのです。有愛さんは助けて欲しくてSOSをちゃんと出していました。有愛さんは次の犠牲を出さない為に死んだわけでも、宝塚歌劇団に入団したわけでもない。ちゃんと生きて、大好きな宝塚歌劇団の舞台に立って生きていたかったと思っています。その気持ちを上回る程に辛い出来事が有愛さんを蝕んでしまった。本当なら、有愛さんを失う前に気が付いて、対策をする必要があったのに、何もかも手遅れになった後に対策をするなんて遅すぎる。
 
 もう少し、あと少しの辛抱。後ろ指をさされないように遺恨が残らないように辞めたい。その為に中途半端な形で辞めたら、何を言われるか分からない。区切りのいいところで辞めよう、それまでなんとかと思って頑張っていたのが、出来なくなってしまった。私は有愛さんはとても辛抱強く頑張ってきた人で、その人が耐えられなくなったという事は、どんなに酷い事があったんだろうかと思いました。
 
 お母様の手紙の中に有愛さんが「どんなに辛い事があっても、舞台の上に立てば忘れる事が出来る」と言っていたことが書いてあって、舞台の上に立てば忘れる事が出来ないほどに辛い事があったんだ、それは死ぬことよりも辛い事だったんだって、そう思ったのです。
 

パワハラがなんだか分からないのに書く、書かせていた誓約書

 それにしても、劇団員はパワハラをしないという誓約書にサインをするというのに、そもそも劇団も劇団員の多くの人達も「パワハラ」がどんなものであるのか理解していなかった事は衝撃でした。理解していない事柄について、それをしませんって、それって何の意味もないと思うのですが、そう思う私はおかしいのかな。