一禾あおさんの『ベルサイユのばら』の休演が発表されました。

今も尚、舞台に立てるような気持ちになれないのだろうと思います。大切な掛け替えのないたった一人の姉をあのような形で失い、その姉の尊厳を守る為に、パワハラ行為を否定する劇団や上級生達を相手にして、必死で闘ってきた一禾さん。自身も現役生でありながら、劇団の暗部を世間に知らせる事になってしまった。ただでさえ、大事な姉を失ったことで心が傷ついているのに、その心の傷を受けながらも、闘わないといけなかったなんて……。

 

 3月28日で一応の決着がついたものの、今もまだ謝罪文を出していない、出さない人間がいる。こんな状況でどうして舞台に立つことが出来るのでしょうか。なのに、パワハラ行為をした宙組の上級生達は近いうちに舞台に立つことが出来る。謝罪しただけ、まだマシかもしれませんが、合意締結したんだから、もう再開してもいいじゃないかっていう声もありますが、私は被害者である一禾さんが復帰できないのに、パワハラ行為者の方が先に復帰することが出来る事が、どうにも納得できません。

 

 パワハラ行為者が宝塚歌劇団の舞台に再び立って、拍手喝采を受ける事が出来るのに、被害者である方は舞台に立つことが出来ない。誰に強制されるのでもなく、心情的にとても舞台に立つことが出来ないのだと思いますが、それにしても、こんなことがまかり通ってしまうなんて、こんなにも理不尽なことはありません。

 

 パワハラさえなければ、一禾さんは大切な姉を失う事もなく、夢見ていた『ベルばら』の舞台に立つことが出来たのに、こんなにも悲しい事はありません。

 

 一禾さんは、『ベルばら』に出てみたいと言っていたそうです。110周年の演目として、初演から50年になる『ベルサイユのばら』が自分が所属する雪組で再演が決まった時にどんなに嬉しかった事でしょう。その時は、一禾さんのお姉さんも生きていて、2人で喜んでいたかもしれません。退団ではなく、休演という事で、いつか必ず宝塚歌劇団の舞台に戻ってきて欲しいと思うのですが、もしも、ご本人がどうしても、こんな非道な劇団の舞台に立つなんて無理だと思うのなら、大切な心と人生を守る為に無理をしないで欲しいです。

 

 あんなことがあって舞台に立つ方が不思議です。私は一禾さんはまともな神経を持っている人なんだと思いました。あのお母様が育てた娘さんですものね……。そもそも、名前を出しますが、有愛きいさんの訃報があった時点で、宝塚歌劇団は公演を全組休演して喪に服すべきではなかったのではないですか。姉の訃報を聞いても舞台に立った一禾さんはその時は役者としての責務を果たされた。それがどんなに辛い事だったか。役者としての心と人の心との狭間でどんなに苦しかった悲しかった事でしょう。その後、一禾さんは人の心に従ったのだと私は思います。

 

 私がそんな風に思うのは、宝塚歌劇団花組で舞台化する以前から、小学生の時から大好きな今も心の教科書になっている『はいからさんが通る』の藤枝蘭丸の言葉がずっと心に残っているからです。最後にその言葉を引用して終わりにします。

 

お客さま

……

本日は

遠路はるばる

おこしのところ

お楽しみを

だいなしにして

しまい……

 

藤枝蘭丸

心より

はじいって

おります

 

なれど!

いまは……

義理ある

人の

命に

かかわる

ときでした

 

それを

みのがすことは

人としての

心が ゆるし

ませんでした

 

舞台を

すてるのが

役者の

はじならば

義理を

すてるのは

人のはじ……

 

どうか……

おゆるしを

……

 

どうか……