平安時代好きブロガー なぎ です。

 

ただいま、ゆっくり「源氏物語の姫君と花」について書いているところです。

どうぞお付き合いくださいませ。

 

 

源氏物語の姫君と花ー⑤玉鬘とナデシコー

 

 

 

今回お話しするのは玉鬘と呼ばれる姫君です。

玉鬘はナデシコに重ねて歌に詠まれたり、ヤマブキにたとえられたりしているのでふたつに分けてお話します。

 

この姫君は頭中将(のちの内大臣)と夕顔との娘です。

都で生まれますが、母の死を知らないまま夕顔の乳母たちとともに筑紫に下り肥前で美しく育ちます。

肥後の豪族・大夫監による求婚を避けて帰京。

 

帰京後の玉鬘は石清水八幡宮や長谷寺へ詣でた後、光源氏の六条院夏の町に迎えられます。

都でも多くの求婚者を惹きつける中、光源氏や夕霧からも思われ戸惑います。

 

 

最初に、ナデシコに重ねて歌に詠まれた玉鬘についてお話いたします。

 

【写真:ナデシコの花/写真提供:写真AC

 


 

『源氏物語』第26帖 「常夏」において、光源氏が玉鬘へ詠んだ歌です。
 

「なでしこの とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人やたづねむ」

[訳:撫子―いつまでも心ひかれるあなたの美しいお姿を父君がごらんになったら、もとの垣根―亡き母君のことをお尋ねになることでしょう]

 

この歌により『源氏物語』第26帖のタイトルは「常夏」となったそうです。常夏は撫子の別名でもあります。

 


この歌での「なでしこ」とは玉鬘のこと。「もとの垣根」とは夕顔のことを指します。

 

この歌は、『源氏物語』第2帖「帚木」において玉鬘の両親(夕顔とかつての頭中将)が交わした歌で玉鬘のことを「撫子」、夕顔のことを「常夏」に重ねて詠んでいたことを踏まえて、光源氏によって詠まれています。

 

かつて頭中将だった玉鬘の父親はこの時、昇進して内大臣になっていました。
 

光源氏は玉鬘を手もとに引き取ったものの、まだ父親である内大臣に玉鬘のことは知らせていません。この時、光源氏と内大臣は不仲でした。

もし内大臣から夕顔の行方を詮索されたら、光源氏自身と夕顔との関係も内大臣に知られてしまう…それが厄介だと思っているのです。
 

夕顔との恋と喪失は、光源氏にとってつらい思い出でもありました。

 

 

一方、玉鬘は父の内大臣に会いたいと願っていますが、光源氏のとりなし次第なので、内大臣に自分のことを知ってもらえるのがいつになるのか不安を抱いているという状況です。

 

 

※ナデシコ[撫子]は、ナデシコ科ナデシコ属。多年草。

春から秋まで長く咲くことから「常夏(とこなつ)」ともよばれます。
 「撫子(ナデシコ)」は「撫でし子」という響きから「撫でてしまいたくなるような可愛さ」ということで子どもを連想させる花です。「撫子」の異名である「常夏」は「床(とこ)」という響きから寝床をともにする妻・愛人を連想させます。
 

光源氏の邸宅・六条院夏の町において玉鬘が住む西の対には、中国由来の唐撫子[石竹(セキチク)]や日本古来の大和撫子[河原撫子(カワラナデシコ)]が垣根のなかで咲いていました。

 

 

 

ちょこっと『枕草子』を見てみますと、第65段「草の花は」では複数の草花が挙げられていますが、一番最初に名前が挙げられているのが「撫子」です。
「唐(から)の撫子はいうまでもなく、大和撫子も本当にすばらしい」とあります。

清少納言は唐撫子も大和撫子もともに評価しているのですね。

 

【写真:カラナデシコ(セキチク)の花/写真提供:写真AC


 


 『源氏物語』第24帖「胡蝶」では、玉鬘が「撫子の細長」を着て描かれていました。「撫子(撫でし子)」で父・内大臣との血縁を象徴しているという説もあるようです。


かさねの色目で、「撫子」は、表が紅梅、裏が青だそうです。(諸説あり)

紅梅色は、紅梅の花に似て、かすかに紫味を含んだ淡い紅の色をいいます。

青はおおよそ現在の緑色を想像してよいようです。表が紅梅、裏が青で、可憐に咲く撫子の花を表したかさねです。

 

「撫子の細長」といいましたが、「細長」は上流貴族の幼児から成人女性までが着用した装束のひとつでした。

晴れ着といいますか、おしゃれ着のようです。

平安時代の「細長」は当時のものが残っておらずどのような形状であったのかわかっていません。

 

 

下の写真は、かさね色目は違いますが、京都にある井筒という会社が再現した「細長」を着た様子です。
(顔は隠していますが写真に映っているのは私です)

 

この細長は、裾がわかれていて長く引いています。その名の通り、裾が細長いことが特徴です。

 

【写真:細長を着て動いた様子①】

 

【写真:同じく細長を後ろから見た様子】


 

一方、写真のタイプの「細長」とは異なるという説もあります。

 

『平安朝の文学と装束』(畠山大二郎 著/新典社/2016年) によると細長の形態について

❝通常の袿の衽(おくみ)がない形状のものであった。恐らく袿の上の重ねたと思われ、衽のない分、裾の両端から下に来た袿や単衣が見えることになる。❞ 

と書かれています。

 

 

次回は、山吹の花の細長が似合い、ヤエヤマブキやヤマブキにたとえられる玉鬘についてお話したいと思います

 

⇒ 玉鬘とヤマブキ

 

 

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源氏物語の姫君と花ー④明石の姫君とフジ

 

 

 

 

今回お話するのは、明石の君の娘で藤の花にたとえられる明石の姫君(明石の女御)です。

 

この姫君は光源氏と明石の君との娘です。光源氏が明石滞在中に明石の君と結ばれ、光源氏の帰京後、明石で生まれました。

3才で平安京に近い大堰の山荘に母とともに移り住みます。

この大堰の山荘は、嵐山を流れる大堰川の近くにありました。

 

明石の姫君は実母である明石の君と分かれ、紫の上の養女として都の二条院に引き取られ、のちに六条院春の町に住みます。

11才で東宮に入内し、明石の女御と呼ばれ、13才で出産した若宮…第一皇子は東宮の即位後、次の東宮になります。

『源氏物語』第三部で活躍する匂宮や女一宮たちの母ともなり、明石の中宮として重んじられます。
 

 

以下は、『源氏物語』第28帖「野分」において、野分のお見舞いに乗じて光源氏の息子である夕霧が垣間見た明石の姫君の様子です。

 

これは藤の花とやいふべからむ、木高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひは、かくぞあるかし、と思ひよそえられる。

[訳:「この姫君は藤の花とでもいうところだろうか。木高い木から咲きかかって、風になびいているその花の美しさは、ちょうどこのような感じだ」と思いなぞらえられる。]

 【本文と訳の引用:渋谷栄一先生によるホームページ『源氏物語の世界』 】

 

 

藤の花が高い木に巻き付いて咲き、花房が風になびいている美しい様子を下から見上げるようなイメージでしょうか。

藤の花は紫色で、紫色は高貴な色という位置づけですから、明石の姫君幼いながらも気品があるのがうかがえます。

 

夕霧からみて明石の姫君は異母妹にあたります。この時、明石の姫君は8才。15才の夕霧は、明石の姫君の美しさに、成長したらどんなに綺麗になることだろうと思うのでした。

(こののち明石の姫君は東宮に入内し、女御となります。)

 

 

【図:明石の姫君・夕霧 系図】

 

 

次に第35帖「若菜下」において、光源氏から見た19才の明石の女御の様子です。

 

 

よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて かたはらに並ぶ花なき朝ぼらけ の心地ぞしたまへる。

[訳:十分に咲きこぼれてた藤の花が、夏に入っても咲き続け、ほかにこれと並ぶ花のない朝景色といった感じでいらっしゃる。]

 

 

8才の明石の姫君は夕霧によって藤の花にたとえられましたが、入内後、19才となった姿は、父親の光源氏によって、夏に入ってもなお美しく盛りに咲き続ける藤の花にたとえられています。


この時、明石の女御は懐妊していて、おなかのなかにいる子はのちに匂宮(におうみや)と呼ばれる三の宮です。

 

後宮では明石の女御と並ぶような相手もなく東宮から寵愛され、安定した境遇にありました。高貴な藤が盛りに咲く様子は、明石の女御にぴったりなたとえだと思われます。

 

 

 

※フジ[藤]は、マメ科フジ属。つる性落葉樹。花は晩春・・・4月下旬から5月中旬にかけて長い花序(かじょ)を垂らして咲きます。和歌では「藤波」ともいいます。藤の花が風で波打つ様子が愛でられました。初夏に細長く扁平な果実をつけます。

 

フジは大きく分けて、ノダフジとヤマフジの2種類があり、蔓の巻き方で見分けることができるそうです。正面から見て左上がりであればノダフジ。右上がりであればヤマフジだそうです。

 

 

また、内裏の後宮のひとつである藤壺は、飛香舎のことであり壺に藤が植えられていたことから、飛香舎は藤壺とも呼ばれました。

『源氏物語』の光源氏が恋い慕った藤壺宮(藤壺中宮)が「藤壺」と呼ばれたのも飛香舎にいたことにちなみます。

 


では、ちょこっと『枕草子』に書かれた藤を見てみます。

『枕草子』第40段「あてなるもの(=高貴で上品なもの)」において「藤の花」が挙げられています。
また、第85段「めでたきもの(=すばらしいもの)」では「色合い深く花房が長く咲いている藤の花が、松にかかっているの がすばらしい」とあります。

 

【写真:藤棚で咲くフジの花】

 

この藤の写真は、私が数年前に唐津城(佐賀県唐津市)で撮った藤棚です。


平安時代に藤棚はまだありませんでした。自然界でのフジは様々な樹木に絡みつき成長しますが、平安時代は特にマツに絡むフジは優美なものとされたようです。
 

大河ドラマ『光る君へ』をご覧になっていた方はお気づきだったでしょうか。

藤原道長の邸宅、土御門殿の庭では、松の木にフジのツルが絡んで花が咲いていました。細かいことですがドラマで見ることができて嬉しかったです。

 

 

次回は、ナデシコのたとえられた玉鬘についてお話します

 

⇒ 玉鬘とナデシコ(後日upします)

 

 

 

 

 

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 源氏物語の姫君と花ー③花散里とタチバナー
 

 

 

今回お話するのは花散里と呼ばれる女君と橘の花が香る邸についてです。


この女君は、亡き桐壺院の女御のひとりだった麗景殿の女御の妹で三の君として登場します。姉が女御だったということは大臣家の姫君であることがわかります。

光源氏の妻のひとりとして、のちに光源氏の二条東院に迎えられ、六条院の完成後は夏の町に住みました。光源氏の息子の夕霧や光源氏がひきとった玉鬘を養育したことから人柄がよく信頼される女性だったようです。

 

【図:三の君こと花散里の系図】

 

 

以下の歌は、三の君がまだ二条東院に迎えられる前…中川というところに住んでいた頃、光源氏が姉の麗景殿の女御へ詠んだ歌です。

 

橘の香をなつかしみほととぎす 花散る里をたづねてぞとふ

[訳:昔の人を思い出させる橘の香りが懐かしいので、ほととぎすは花の散るこのお邸を捜してやってきました。]

 

  【本文と訳の引用:渋谷栄一先生によるホームページ『源氏物語の世界』 】

 

 

この歌によって、三の君は「花散里」と呼ばれるようになり、『源氏物語』第11帖のタイトルが「花散里」となったようです。

 

【写真:タチバナの花/写真提供:写真AC

 

 

光源氏25才の夏・旧暦5月20日の夜、麗景殿の女御とその妹の三の君…花散里を訪ねます。

恋人である三の君に会うより前に、まず麗景殿女御と対面して、亡き桐壺院の時代の懐かしい話をして、この歌を詠みました。そこから光源氏は三の君の部屋に立ち寄ります。三の君にとって光源氏の訪問は久しぶりのことでしたが、恨み言を言うのではなく、親しく過ごすのでした。

 

三の君こと花散里が暮らす邸は、平安京の東、中川のあたりにあり、橘の花の香りがなつかしく匂っており、ホトトギスが鳴くといった風情あるところです。


ホトトギスの鳴き声は「キョッ、キョン、キョキョキョキョ」と聞こえるような…?

鳴き声のたとえとして「特許許可局」とか「てっぺんかけたか」と聞こえるともいわれています。

 

 

話が逸れますが、

花散里の邸があった中川は、現在でいうところの京都御苑の東側で鴨川の西側、梨木神社や廬山寺がある地域を指します。廬山寺は、かつて紫式部の邸宅があった場所とされています。

紫式部は自分が住む邸宅あたりを花散里の邸がある場所のモデルにしたのかもしれません。

 

現在、廬山寺には「源氏庭(げんじてい)」という庭があり、玄関には金ぴかの紫式部像があります。

2024年に廬山寺をお参りにいきましたら大河ドラマ「光る君へ」の影響か以前訪ねた時よりもお参りの方が多かったです。

 

【写真:廬山寺の紫式部像】

 

 

話をタチバナに戻しますね。

 

※タチバナ[橘]はミカン科ミカン属。常緑低木。広くは柑橘類の総称です。

5月から6月(旧暦5月)に白い花を咲かせ、秋に黄金色の果実をつけます。歌では「花橘」ともいいます。

タチバナとホトトギスはセットで歌に詠まれました。恋の鳥・ホトトギスを男性に見立て、橘の花を女性に見立てて、ホトトギスを誠実に待ち続ける花というイメージがあったのだとか。

 

『古今和歌集』の歌「五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする」が有名で、橘の花の香りは昔を思い出させる、として親しまれていました。

 

花橘といえば、『源氏物語』において光源氏が建てた六条院の夏の町には花散里が住み、庭には花橘が植えられていました。

ひょっとしたら光源氏と花散里にとって、中川での思い出を共有するシンボルツリーとして、夏の町に花橘が植えられたのだとしたら素敵だなと思います。

 

 

清少納言は橘をどのように見ていたのでしょう。『枕草子』第35段「木の花は」で「橘」が挙げられています。少し長いですが角川ソフィア文庫の『新訂 枕草子』の現代語訳よりご紹介します。

 

四月の末や五月の初めのころ、橘の葉が濃く青いところに花がまことに白く咲いているのが、雨の降っている早朝などは、世に類がないほど風情がある様子で美しい。花の中から、実が黄金の玉かと見えて、たいそうあざやかに見えている様子などは、朝露に濡れている朝ぼらけの桜に劣らない。ホトトギスが宿る木とまで思うせいか、やはり改めて言う必要がないすばらしさだ。

 

橘は常緑樹です。青い葉を繁らせ、白い花を咲かせます。そんな中、秋に実った黄金の玉のような実が、寒い冬を経て、翌年の開花時期まで残っているのです。「青い葉」と「白い花」と「黄金色の実」…それらがそろっているのをあざやかだと賞賛しています。
そしてタチバナとホトトギスはやはりセットで考えられているのですね。

 


ちなみに『源氏物語』第35帖「若菜下」では、光源氏の妻のひとり、明石の君(明石の御方)の喩えとして「あたかも五月待つ花橘の、花も実もいっしょに折り取った時のかぐわしさを思わずにいられない。」とあり、明石の君の魅力を讃えています。

 

 

 

 

次回は、藤の花にたとえらえる明石の姫君についてお話します。

⇒ 明石の姫君とフジ(後日upします)

 

 

 

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源氏物語の姫君と花ー②夕顔とユウガオー

 

 

 

今回お話するのは夕顔と呼ばれる女君です。

前回お話した紫の上もそうですが『源氏物語』に登場する人物は基本的に本名は書かれていません。


この女君は、三位中将の娘でした。頭中将の恋人であり、のちに登場する娘…玉鬘の母です。

頭中将の正妻から嫌がらせがあり五条あたりの粗末な家に身を隠していたところ、垣根に咲く「白い花」をきっかけに光源氏に出会うことになります。

 

【図:夕顔の系図】

 

 

ここから、光源氏側の視点でお話します。
17才の光源氏は乳母の見舞いのために五条にある家を訪れます。この家の隣りにある垣根で「白い花」が咲いているのに目を奪われます。


光源氏が垣根に咲く「白い花」について「遠方人に物申す」と言いました。

これは、「向こうの方にお尋ね申す。そこに白く咲いているのは何の花ですか?」という意味をもつ歌の一部です。

光源氏の近くに仕える随身は「夕顔と申します」と答えました。随身に夕顔の花を手折らせるとこの家の中から女童…少女が出てきて、白い扇を差し出し、花を扇の上に載せるよう言うのでした。

 

あとになって扇を見ると、歌が書いてありました。

 

心あてにそれかとぞ見る白露の 光そへたる夕顔の花

[訳:当て推量に貴方さまでしょうかと思います 白露の光を加えて美しい夕顔の花は]

 

   【本文と訳の引用:渋谷栄一先生によるホームページ『源氏物語の世界』 】

 

 

ちょっと思わせぶりな感じがしますよね。


この歌には複数の解釈があるそうです。

女君は、白い花に興味を持った人物がすぐに光源氏だとわかったのでしょうか。

それとも恋人だった頭中将が来てくれたと間違えたのでしょうか。


当時、いきなり女性から男性へ歌を読むことは稀だったといいます。
白き花を所望する高貴な人に対して挨拶を贈った歌とも、女房たちとの合作の歌であるといった説もあるようです。

 

こちらは清水婦久子先生の『光源氏と夕顔―身分違いの恋―』という本での訳です。

 

[訳:おそらくその花だと思って見ております、白露の光(あなたさまのお姿)に照らされて輝く夕顔の花を]

 

最初に光源氏が「遠方人に物申す」…向こうのお方にお尋ね申す、と花の名前を尋ねる歌を言ったので、垣根の向こう側にいた女君は「その白い花はおそらく夕顔だと思います」と歌で答えたに過ぎないという解釈だそうです。

 

歌で聞かれたので歌で返したという流れです。

そうすると、この謎めいた女君は、五条あたりの鄙びた家が建ち並ぶ地域に住んでいながらも、光源氏が言った古い歌そのものを知っていて、対応できるだけの教養がある女性なのだとわかります。

ともあれ、この歌によって、作中の女君は「夕顔」と呼ばれるようになり、『源氏物語』第4帖のタイトルが「夕顔」となったそうです。

 

 

白い花、「夕顔」の花をきっかけとして、光源氏はお互いに身の上を隠したまま女君…夕顔のもとに通うようになりました。

八月十五日の夜、光源氏は夕顔を寂れた邸宅に連れ出しともに過ごしますが、物の怪に襲われて夕顔は亡くなります。

光源氏の悲しみは大変深いものでした。

 

光源氏17才。夕顔19才のことです。


ごく短い期間、光源氏と関係をもったものの亡くなってしまう様子が、一晩で花を終えるユウガオの儚ないイメージにも重なります。

 


【写真:白い花・・・ユウガオ/写真提供:写真AC

 なぎ注 たぶん雄花だろうと思います

 

 

※ユウガオ[夕顔]はウリ科ユウガオ属。一年生つる草。

 

名前が似ているアサガオ・ヒルガオ・ヨルガオはヒルガオ科なのでウリ科のユウガオとは全く別の植物です。

ユウガオは夏の夕方から夜に五弁の白い花を咲かせて、翌朝にはしぼみます。
 

ユウガオには雄花と雌花があります。

雄花にはおしべはありますが、めしべはありません。雌花にはめしべがありますが、おしべはありません。

雌花の下にはふくらみがあり、受粉後はそれが大きな実となります。
 

このユウガオの大きな実は、巻き寿司や汁ものでお馴染み、干瓢(かんぴょう)の原料となります。

ユウガオの実は3つのタイプがあり、長い楕円形タイプや洋梨のような形のタイプ、丸いタイプがあるそうです。

 

平安時代のユウガオは貴族の邸宅の庭に植えられるような花ではなかったため、貴族たちには馴染みが薄かったようです。だから光源氏も白い花を見て何の花だろうと興味を持ったのかもしれません。
 

ちょこっと『枕草子』を見てみると、第65段「草の花は」において「夕顔」の名が挙げられています。

内容がおもしろいので角川ソフィア文庫の『新訂 枕草子』の現代語訳をご紹介しますね。

 

[訳:夕顔は、花の形も朝顔に似て、並べて言い続けると実に美しいはずの花の姿に対し、実の恰好は、まったくがっかりする。どうして、あのように成長してきたのだろう。ほおずきなどという物の実のようにせめてあってほしいものだ。けれども、やはり「夕顔」という名だけはおもしろい。]

 

 

清少納言からひどい言われようですが、「夕顔」という名前だけは「をかし」…おもしろい、とあります。

 

『源氏物語』で夕顔がモチーフになったのは『枕草子』の影響があると指摘されているそうです。

清少納言は夕顔の実に着目していますが、紫式部は夕顔の花に着目して物語を展開させているのがおもしろいと思います。
 

歌に詠まれることが少なかったユウガオですが『源氏物語』以降は、歌に詠まれる機会が増えるのだとか。

 

 

 

次回は、タチバナの花が香る中川に住む花散里についてお話します。

 

⇒ 花散里とタチバナ

 

 

 

 

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

ただいま、ゆっくり「源氏の物語の姫君と花」について書いているところです。

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源氏物語の姫君と花ー①紫の上とサクラー

 

 

まずは紫の上について簡単にお話します。

紫の上は兵部卿宮(のちの式部卿宮)の娘で、光源氏が思慕する藤壺宮(のちの藤壺中宮)の姪にあたり藤壺宮に似通う女性です。

10才ほどの頃、光源氏によって北山で見出されます。親代わりだった祖母の死後は光源氏の二条院に引き取られやがて結ばれました。

紫の上は光源氏の正妻格として光源氏からも周囲の人々からも重んじられます。光源氏が六条院を建てたあと、紫の上は春の町に住むことになります。

 

【図:紫の上 系図】

 

 

ちなみに紫の上の「紫」という呼称は、光源氏が幼い頃の彼女をムラサキと呼ばれる植物にたとえて歌に詠んだことに由来します。

紫草と書いてムラサキと読むそうです。濃い紫色を染めるにはこのムラサキの根っこの部分が大量に必要であり、紫色は古くから貴重で高貴な色とされていました。

 

 

 

さて『源氏物語』第28帖「野分」において、六条院が野分…野の草を吹き分けるような強い風に襲われます。

野分のあと、光源氏の息子である夕霧は、初めて、父の妻・紫の上の姿を垣間見てしまい、その美しさに惹かれる場面があります。

 

【図:夕霧と紫の上 系図】

 


この時、夕霧は15歳。紫の上は28~29歳でした。

 

春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。

 

[訳:春の曙の霞の間から、美しい樺桜が咲き乱れているのを見る感じがする。]

 

  【本文と訳の引用:渋谷栄一先生によるホームページ『源氏物語の世界』 】

 

 

これが夕霧から見た紫の上の様子です。

「春の曙」とありますが、「曙」は「ほのぼのと夜が明けはじめるころ」を指します。

この「春の曙」という表現について、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、『枕草子』の冒頭にある「春はあけぼの」の影響を受けているという説もあるそうです。

 

 

【写真:ヤマザクラの花/写真提供:写真AC

 

 

※紫の上がたとえられたカバザクラ[樺桜]は、どのサクラを指すのか定かではありません。

『源氏物語』第41帖「幻」での記述によると、一重咲きのサクラが散って、八重咲きのサクラが咲き、その盛りが過ぎてからカバザクラが咲き始めるようです。藤の花房が色づくより前のことです。

 

カバザクラはサクラとしては遅い時期に咲くのですね。


室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書『河海抄』によると、花の色は「うす紅」とあるそうなので、少なくとも室町時代の読者は、樺桜をうす紅色の花だと認識していたのかもしれません。

 

現在では、開花時期から、カバザクラはオオヤマザクラのことではないかとも推論されていますが、今も諸説あるそうです。オオヤマザクラはヤマザクラに比べて花が大きく、花色が濃いそうです。

 

 

 

次に『源氏物語』第35帖「若菜下」にでは、光源氏から見た紫の上が描かれています。

 

花といはば桜に喩へても、なほものよりすぐれたるけはひ、ことにものしたまふ。

 

[訳:花と言ったら桜に喩えても、やはり衆に抜ん出た様子、格別の風情でいらっしゃる。]

 

この時、光源氏は47才で、紫の上は37才または39才から40才のことでした。
 

紫の上は生涯にわたって桜に関連付けられます。
かつて18才だった光源氏が、10才頃だった紫の上を見出したのも、都ではすでに散った桜が、北山ではまだ盛りの頃でした。当時、「山桜」に喩えて歌に詠まれています

 

紫の上は20代後半には夕霧によって樺桜にたとえられ、30代も後半になった今、光源氏によって桜にたとえられものの、その桜よりもさらにすぐれた美しい佇まいとされています。

 


さて、 『源氏物語』には全部で3種類のサクラ[樺桜・八重桜・山桜]が登場します。ただ「桜」と記述されているものの多くはヤマザクラだと考えられます。

 

桜というと、現代の私たちには花が大きく樹全体に花を咲かせる栽培品種のソメイヨシノが馴染み深いです。

江戸時代末期にエドヒガンとオオシマザクラをかけあわせて江戸で売り出されたのが始まりで1900年にソメイヨシノと名付けられたのだそうです。

 

古くから野生にあったヤマザクラと比べるとソメイヨシノは新しい品種なのですね。

 

ソメイヨシノは花が散り始めた頃からやわらかな緑色の葉を出しますが、それに対して、ヤマザクラは、赤みのある葉が花と同時に出るのが特徴です。
 

※ヤマザクラは、バラ科サクラ属。落葉高木。3月から4月に赤みを帯びた新しい葉の芽吹きと同時に開花します。花弁は5枚の一重咲きです。果実は初夏に黒っぽい紫色の実が熟します。

 

 

ちょこっと『枕草子』を見てみます。

『枕草子』第65段「木の花は」において「桜」が挙げられていて、「桜は、花びらが大きくて、葉の色の濃いのが、枝は細くて 咲いているのが良い」とあります。

清少納言の好み、あるいは当時の好みがうかがえます。

 

 

 

ちょっと脱線しますが、

『源氏物語』に出てくる桜というと、好きな場面がありましてご紹介させてください。

 

第42帖「幻」にあるエピソードです。紫の上が亡くなったのち、明石の中宮が産んだ三の宮…のちの匂宮(におうみや)が紫の上が愛した紅梅や桜を引き継ぎます。


当時5才の三の宮は義理の祖母にあたる紫の上を慕っていました。

三の宮はどうにかしていつまでも桜の花を散らさずにおきたいな、と。桜の木のまわりに几帳を置いて帷子を上げずに 垂らしておいたら、風も近寄ってこないだろうと得意げに言う場面があります。

 

 

【几帳のイラスト 「かわいいフリー素材集 いらすとや」より】

 

 

几帳は移動式カーテンのような家具です。部屋を仕切ったり、覗かれることを防ぐ目隠しとして使われた家具でした。
本来はそんなふうに使われる几帳を桜の木のまわりにおいて、風が吹いても花が散らないようにしたいというのです。

 

この場面、子どもらしいアイデアでとてもかわいいと思う好きな場面です。
桜の花をいつまでも見ていたい・どうか散らないで欲しいと思う気持ちは昔も今も変わらないですよね。
 

 

次回、光源氏が白い花…ユウガオを介して出会った夕顔についてお話します。

 

⇒ ②夕顔とユウガオ