
【動物化するポストモダン・前編】
サブタイトルは「オタクから見た日本社会」
モダンとは何ぞ
モダン(近代)とは、情報技術が発展し科学技術が発展し商工業が発展。地方の共同体に包まれていた若者が都市に流出。
中世的な人々の精神性も変化した。信仰心、共通認識、生活規範、倫理道徳などに影響。主体性を持つ事が近代人とされる。
合理主義精神が支配的になり、キリスト教的な絶対的な価値観が西洋社会で弱くなる。
支えとなる絶対的価値がなくなったことで、人生の目的や意味を見失うニヒリズム(虚無主義)の時代が到来。
自分は中学生から高校生ぐらいの頃に神への信仰心を失った。世の中の人々から信仰が無くなるとどうなるのだろうと不安に思った覚えがある。
実存主義や構造主義など当時知る由もなかったが、何か心の拠り所となるような思想を打ち立てるべきなのではと思った。(思っただけだが…)
新たな心の拠り所や民衆を結束させるような思想が打ち立てられた。
ヘーゲルは全体主義や国粋主義。
ヒトラーは民族社会主義。
マルクスは社会主義や共産主義。
サルトルは実存主義。
そして、ポストモダン
第二次世界大戦後、サルトルの実存主義が流行るも、自由が当たり前になり経済的豊かさが増すと社会主義が崩壊し、実存主義も廃れていった。(構造主義の台頭も原因)
戦後復興に経済発展で国民的目標を達成し、目標が無くなる。
都市部では人口が過密になり個の存在が希釈される。
大量生産大量消費時代。「機能的で画一的なモノ」から「記号・意味の消費」
価値観が多様化し相対主義の時代になり近代的なるものが終焉。
従来の政治イデオロギー・経済的目標・理性理念・社会規範が機能不全を起こし社会全体のまとまりが弱体化したとされ、これが「大きな物語」の終焉と呼ばれている。
動物化とは何ぞ
動物化という概念は、哲学者アレクサンドル・コジェーヴが提起した概念。
人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動、自然との闘争が無ければならない。対して動物とは自然と調和し生きる存在。(コジェーヴが解釈するヘーゲル哲学的説明)
消費者のニーズを満たす商品に囲まれ、メディアが要求するままにモードが変わり、ただ与えられたものを食い散らかすだけの消費社会。そこには飢えも無いが哲学も無い。
動物化と対比した、コジェーヴの日本的スノビズムとは
与えられた環境を否定する実質的理由が無いにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式。あえてそれを選択する(非動物的)というのがポイント。
例として、純粋に儀礼的に遂行される切腹。ただ茶を飲むだけなのに形式を重んじる茶道等の日本文化に根付いているものをスノビズムと指摘。
東浩紀氏の例では、似たような設定で似たよう展開(価値の無い物)の戦隊モノから趣向を切り離す事で(あえて価値を見出す)成立させるオタク的感性。
日本のポストモダン
東浩紀氏は1970年以降を日本のポストモダンと想定している。
1868年の明治維新から始まる近代。急速な西洋化、富国強兵、資本主義社会への転換を遂げた時代。そして太平洋戦争終結と戦後復興。
1980年代。高度経済成長を経てバブルへと至る「ジャパン・アズ・ナンバーワン」な時代。言論界ではコジェーヴのスノビズムなども影響しナルシシズムが覆う。
日本の近代は西洋の模倣で作り上げた張りぼてで、内面は未成熟だとされている。(西洋の近代的価値観を普遍的とした場合)
であるが故に、主体の崩壊にも抵抗が無くポストモダンへの適応力が有り、高い科学技術と爛熟した消費社会に適応した歴史の最先端に立つことになると解釈された。
そしてその最先端とやらの幻想は1990年代になり消滅。
が、一方で、ネクラで引きこもりでキモいと否定されたオタク文化は世界で評価されだした。
つづく…