東大寺はあまりにも大きいので時間がかかりますと、筆が遅いことや内容が冗長なことを棚にあげた言い訳で始める第4弾です。
大仏殿の回廊東南隅から東に向かって登る道を見るとこのように鳥居があります。脇の石碑にあるように手向山神社(八幡宮)の鳥居です。参道がずっと奥まで伸びています。
この参道を歩くとすぐに、前の記事の最後でご紹介した東塔基壇跡が右手に見え、さらに階段を登ると神社の拝殿が見えてきます。
ここは東大寺創建の時に寺院の守護として八幡神が祀られています。創建時に大分の宇佐八幡宮から勧請された神さまです。以前は別のところにあったようなのですが、治承四年(1180)の兵火の後、源頼朝の手によってこの地に再興されました。
かつては単に八幡宮と呼ばれ、寺の鎮守として崇められていた神社が今のように手向山と冠せられるようになったのは150年前の廃仏毀釈以降のことです。この時、ご神体の僧形八幡神坐像は壊されることなく他に無事に移され、現在は東大寺勧進所八幡殿に秘仏として安置されています(場所だけ次回ご紹介します)。
その像は胎内銘から建仁元年(1201)に仏師快慶によって造られたことがわかっています。写真でしか見たことがないのですが、写実的な顔立ちももちろんのこと、秘仏だったがゆえに今日も鮮やかに残っている衣に施された彩色文様も含めて素晴らしい像です。
さてここから北に向かうとすぐに見えてくるのが、法華堂(三月堂)です。国宝の建物です。
ここには天平時代の名品と言われる10体の仏像が安置されているのですが、今回は少し先を急いだため(というよりは休憩に時間を取りすぎたため)拝観しませんでした。以下10体の仏像を簡単に羅列します。
ご本尊:不空羂索観音菩薩立像(脱活乾漆造)高さ約3.6 m このご本尊を見るといつも、最初に造られた大仏の顔はこんな感じだったのかな、と思ってしまいます。
ガードA:梵天・帝釈天立像(脱活乾漆造)以下どの像も3m以上はあると思われます。
ガードB:四天王立像(脱活乾漆造)下に踏まれている邪鬼の造形が妙にリアル。
ガードC:阿形吽形金剛力士像(脱活乾漆造)一般に知られる上半身裸の金剛力士とは異なり甲冑を着ています。
これら九体は、時期を問わず拝観できますが、裏側に安置されている執金剛神像(しゅこんごうしん:塑造)だけは秘仏で、毎年12月16日の1日だけ開扉されます。その執金剛神像は東大寺の前身と言われている、金鍾寺(きんしょうじ、または、こんしゅじ)時代からあったと考えられているようです。像は金剛杵をもつ迫力ある忿怒の形相の写実的な像です。秘仏のため当初の彩色がよく残っています。美術の本などでご覧になった方も多いのではないでしょうか。
この写真がその執金剛神像が安置されている法華堂の北面です。
さて、この法華堂は東大寺に現存するもっとも古い堂宇建築です(前々回ちょっとだけ触れた転害門は堂宇ではありません)。本尊が不空羂索観音菩薩なので古くは羂索堂とも呼ばれ、記録よれば天平五年(733)に建造されたとのことです。近年(多分2010年から2013年にかけての解体修理時)に行われた部材の年輪年代測定調査結果も、この記録の時期と矛盾しないものだったそうですから、かなり古い建物と言って良いでしょう。二度の兵火はこの上院地区にまでは及ばなかったわけです。
もっとも、実はそれは部分的なことなのです。下の写真は数年前に法華堂を横から撮影したものです。
Aの部分とBの部分では屋根瓦の色が異なっています。よく見ると窓の形状も違います。Aの部分の屋根は寄棟造(よせむねづくり)であるのに対して、Bの部分は入母屋造(いりもやづくり)になっています。下の図からお分かりのように、一般的に屋根は(横から見て)左右対称になるので、ちょっと不思議な造りと言えます。
実はこの三月堂は元々は二つの建物でした。Aの部分はかつて正堂(しょうどう)という仏像が安置される建物で、Bの部分は檜皮葺の礼堂(らいどう)でした。ところが、鎌倉時代の文永元年(1264)に、この二つの堂を繋げる改築が行われたのです。その際、礼堂は檜皮葺から瓦葺きに改められるとともに大仏様の木組になりました。そして、点線で示すところが連結部分として新たに加わったのです。500年以上のギャップがある二つの建築様式と異なった屋根の形状が見事にマッチした美しい建築なのではないでしょうか。
翻って現代の建築を見ると、耐用年数などの問題があるからだとは思いますが、多くの場合全部壊して新しいものに総入れ替えになっています。全部がそうであれば良いとまでは言いませんが、このような先人の知恵に学んで古い建築を残す方法もあるのではないか、とふと思ってしまいます。
法華堂の北隣には二月堂があります。これも国宝の建物です。
斜面にこのような形で建てられている建造物のことを懸崖造(けんがいづくり)というそうですが、この建物も三月堂同様、二度の兵火をくぐり抜けました。ただ、江戸時代に入った寛文七年(1667)に修二会中に起こった火災で焼失してしまったそうです。現在の建物はその二年後に再建されたものです。訪れたこの日は修二会の参拝客が事故に遭わないように、そして余計なところに入らないようにする竹垣が作られていました。
この記事を書いている現在、三月一日から十五日までの日程で、この二月堂ではその修二会が行われています。修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といい、本尊である秘仏の十一面観音菩薩の前で過ちを懺悔するものだそうです。有名なお松明やお水取りはその一部に過ぎません。本来は旧暦二月一日から十五日間の行事でしたので、その日程通りであれば、今年の場合は一昨日(三月七日)が初日ということになります。奈良あたりでは「お水取りが終わると(本格的な)春になる」と言われているようで、季節の変わり目を象徴する行事なのです。実際、だんだんと暖かくなっていますね。
南大門と大仏殿の間にある東大寺ミュージアムでは、この修二会にあわせて特別展示が行われていました。寛文九年に再建された二月堂の設計図などに混じって、修二会で参籠した僧侶の日記がありました。その中の永禄十一年(1568)の条には、「前年の兵火で寺の大部分が失われたけど、800年間ずっと続いている修二会がみんなで努力したのでちゃんとできてうれし~い」ということが書かれていました。
修二会は天平勝宝四年(752)に始められて以来、今年に到るまで一度も途絶えることなく行われてきたました(今年は1268回目)。二月堂が焼失した時も場所を替えて行われたようです。
これが、修二会でお松明があげられる舞台です。
ここから西の眺めは絶景で、東大寺の中で私が好きな場所の一つです。「お松明」は修二会で「十一面悔過」を行う僧侶(勤行衆:ごんぎょうしゅう)の足元を照らす火で、15日間毎日あげられます。日によって本数や時間帯が微妙に異なっているようです。
さて、「お水取り」は修二会の別名ともなるようなピークの行事で、三月十二日に若狭井という井戸から観音に捧げる水を汲む行事です。
若狭井は二月堂の舞台から見下ろすと下の写真①の建物です。
元々は最初の修二会の時に若狭国の遠敷明神(おにょうみょうじん)が献じたことからこの名がつきました。建物自体は奈良時代のオリジナルではなく、鎌倉時代に再建されたものです。
②で示した二月堂仏餉屋(ぶっしょうや:粥などを作る建物)も鎌倉時代の建築だそうです。この下には奈良時代初め頃の掘立柱建物の跡が見つかっていて、法華堂の由来などと考え合わせると、この高台一帯の上院地区こそ東大寺発祥の地と言えるのです。
視線をもう少し右に移して遠くをみるとこんな感じの風景が目に入ります。
木立の向こうに大仏殿の屋根が見え、はるか彼方には生駒の山々が…この日は霞んでいてよく見えませんでした。
③は二月堂湯屋(江戸時代の建物)、④は二月堂参籠所(室町時代の建物)です。仏餉屋=キッチン、湯屋=浴室、参籠所=寝室と、それぞれ修二会の際に勤行衆の生活を支える場所ということでしょう。これらの建物は全て国指定の重要文化財です(湯屋だけは奈良県指定)。
ところで、二月堂とは直接関係ありませんが、画面右寄りに見える広場のようなところは講堂跡で、礎石が残っています。
舞台から下に降りて参籠所(人が登っている階段の奥)の前です。お松明の準備でしょう。たくさんの竹が用意されていました。
下の写真は、奈良国立博物館に展示されていた籠松明です。
説明によれば、8mの竹の先に松の板と杉の葉を束ねて藤蔓で結わえたもので、重さは80 kgにもなるとのことです。お松明ではこれが一人の童子によって担がれます。火をつけて走るのですから、相当な体力が必要とされる行です。
この上院地区から大仏殿の裏手方面に下る石畳の道は裏参道とも呼ばれているところです。前の記事で、小学生時代の私が會津八一の歌に惹かれたと書きましたが、もう一人興味を持ったのは半年以上前の記事でも少し触れた入江泰吉による写真です。そこで、入江泰吉を気取ってモノクロ加工した裏参道の写真を最後にご紹介いたします。
失礼しました。
(次回は戒壇堂です)
【参考文献】
[1] 古川順弘 神と仏の明治維新 洋泉社(2018)
[2] 綾村 宏 東大寺の建物と景観 東大寺(古寺巡礼 奈良3)狭川宗玄・吉岡幸雄共著 pp116-122 淡交社(2010)
[3] 梶谷亮治 法華堂安置の諸尊 東大寺(古寺巡礼 奈良3)狭川宗玄・吉岡幸雄共著 pp123-128 淡交社(2010)
[4] 佐藤道子 二月堂の修二会 東大寺(古寺巡礼 奈良3)狭川宗玄・吉岡幸雄共著 pp129-135 淡交社(2010)
[5] 山本勉 仏像 日本仏像史講義(別冊太陽) 平凡社(2013)
[6] 水野敬三郎監修 日本仏像史 美術出版社(2001)
[7] 森本公穣@東大寺(東大寺の僧侶森本師のツイッター:@kojomrmt)
[8] 東大寺の公式サイト(http://www.todaiji.or.jp/index.html)
[9] 奈良国立博物館 展覧会カタログ「お水取り 特別陳列」(2006)













