木の仏さま(2) | == 肖蟲軒雑記 ==

== 肖蟲軒雑記 ==

ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

【古い仏さまたち 1 飛鳥大仏】

 

 平城京が都となった和銅三年(710年)より前の時代、都は飛鳥、難波、大津、藤原京など転々と変わった。6世紀末から上記8世紀初頭の120年あまりの期間を歴史学的には飛鳥時代と総称するが、美術史的には前半を飛鳥時代、後半を白鳳時代と呼ぶのが定着しているようだ(注1

 

(注1)もっとも最近の美術史テキストなどを見ると、白鳳時代ではなく「飛鳥時代後期」という表現も多い。

 

 飛鳥時代を代表する木造の仏像としては、(夢殿などの建造物がある)法隆寺東院の救世観音像、同金堂四天王像、同百済観音像などが挙げられるが、残念ながら法隆寺の公式サイト からはその写真をみることができない。

 この時代の像の特徴としては、差異こそあれ、杏仁形の眼、仰月形の唇(古拙の微笑みとかアルカイックスマイルと呼ばれる特徴的な表情の源)、左右対称的かつシンプルな衣文などが挙げられる。木造ではなく金銅仏であるが、伝承によれば最古の像ということになっている「飛鳥大仏」、正式には安居院(飛鳥寺) 釈迦如来坐像(注2にその特徴を見ることが出来る。


飛鳥大仏

(注2)この像は国の重要文化財だが、写真撮影は自由である。上の写真は2年ほど前にあるツアーで拝観した際に撮影したものである。以下はジジ臭い説教であるが、寺院拝観に際して最低限の礼儀を心得ていない人が多いのは嘆かわしい。仮に自分では信心していないとしても、信心しておられる方々のことを尊重して堂内、少なくとも像の前での脱帽や、撮影に際してのストロボオフは心得ておきたいものである。年配の人に結構そういう人がいることを付記する。

 

 いささか脱線する。この釈迦如来坐像は『上宮太子拾遺記』(鎌倉時代)にある建久九年(1197)の落雷火災で大破して頭と手しか残らなかったという記述やツギハギだらけの外観から、長いこと大部分が(鎌倉期以降に)修復されたものと考えられてきた。ところが最近になって、早稲田大学の研究グループ が蛍光X線(注3という非破壊的計測方法を用いて、造立当初から残っていたとされる鼻の左側や右手指の甲と、鎌倉期以降、新たに鋳造されたとされる部分(左襟や左膝など)の金属元素組成を比較したところ、銅の組成について大きな違いがないことを見いだした。つまり、現存する像の大部分が造像当初のものであった可能性が出てきたのである。

 

(注3)蛍光といっても、X線を当ててボオッと光るわけではない。原子はX線など電磁波のエネルギーを吸収して「興奮状態(専門的には励起状態)」になるのだが、そこから元の状態に戻る際に、少しだけエネルギーの低い電磁波(波長が長くなる)を放出する性質がある。これを蛍光(現象)という。この時放出される電磁波の波長が元素に特有なので、それを検出すればどのような元素があるかがわかる。また、予めそれぞれの元素について、この量ならこの程度の強さの電磁波が出ることを測定しておけば、量(あるいは存在比)も計測が可能になる。蛍光は、このように便利な検出手段をいくつも私たちにもたらしてくれる。

 

 ちなみに、日本人の物理学賞受賞の結果、ほとんど無視状態のノーベル化学賞の今年の受賞研究は、この蛍光現象を巧みに利用した新しい顕微鏡技術の開発であった(こちらは可視光なのでボオッと光る)

 

 久野健によって1976年に発表された「飛鳥大仏論」(注4では、修復状況が詳しく調べられている。像全体は木や土などを用いて修復されており、建久九年の火災時以降、バラバラになった断片から再構成しようと努力したのではないか、と推察されていた。久野は像の衣のデザイン観察から、胴体部分の修復に際しては、古い様式が忠実に再現されていると考えたのだが、実際には飛鳥時代のものがかなり残っていたということであろうか。

 このように自然科学をベースとした研究によって、今までとは全く異なった角度から歴史に光を当てることで、定説になっていたことに議論の余地が生まれたというのは、とても面白いことだと思う。X線は波長の短い電磁波なので広い意味で光である。文字通り光を当てていると言って良いだろう。

 


【古い仏さまたち 2 興福寺仏頭】


 7世紀後半、白鳳時代を迎えると、唐文化の影響を受けた像がつくられるようになる。表情が柔らかくなるとともに、さまざまな部分の表現が写実的になっていく。金銅仏で代表例を挙げるとすると、部分しか残っていないが興福寺国宝館にある「銅造仏頭」 であろうか。この像は歴史の波に翻弄されて数奇な運命を辿った。以下簡単に紹介したい。


① 元々は山田寺の本尊として発願された。山田寺は蘇我倉山田石川麻呂によって創建されたが、彼は謀反の濡れ衣を着せられ、中大兄皇子(後の天智帝)と孝徳帝の軍に包囲された寺院内で自害した。後に冤罪と知った皇子は嘆き悲しんだという。発願者の死により本尊の造仏は先延ばしにせざるを得なかった。


② 造仏は天武帝7年(678)に始まり、14年(685)に開眼供養が行われた。天武帝の后は石川麻呂の孫にあたる鵜野讃良皇女(後の持統帝)、非業の死を遂げた祖父の供養が彼女の願いであり、そのため官寺に準ずる扱いで造仏したということかもしれない。


③ そもそも、この経緯が『上宮聖徳法王帝説』という厩戸皇子(聖徳太子)の伝説が書かれた紙(写本:長いこと法隆寺の秘宝だった)の裏側から見いだされたこと自体、数奇なことといえる。紙が貴重だった時代、反古になった紙の裏側がこのように再利用され、現代になって重要な歴史史料となることは結構あることだ。


④ 平安時代の半ばの治安三年(1023)、高野山参詣の途中に立ち寄った藤原道長が、「素晴らしい寺院だ」と絶賛したことが『扶桑略記』に書かれている。蘇我氏が衰えたこの時代でも、寺院の経営は成り立っていたことが窺える。


⑤ それから160年あまり後の文治三年(1187)、事件がおきた。治承四年(1180)の平重衡軍の南都焼き討ちによって焼亡した興福寺東金堂の再建がなったのはこの二年前のことだったが、本尊がないことにしびれを切らせた堂衆(所謂僧兵のこと)が、20kmも南方の山田寺に押しかけ、その本尊を奪い取って安置したと伝えられている。興福寺は藤原氏の氏寺であり、時の氏長者は九条兼実(注5。彼の日記『玉葉』には、堂衆が興福寺上層部に無断で事件を起こしたと記されている。この堂衆の勝手な振る舞いに対して兼実は怒ったのだろうか?

 

今分かっているのは、この二年後東金堂に礼拝し、

「事が起きたときには、返せと命じたのやが、かようにお参りして見ると、なんともまあ、この東金堂に相応しいご立派なお姿やあらっしゃりまへんか。もう返さへんでもよろし。奇しき縁(えにし)でかようなことになった、いうことにしときましょ、ホッホッホ…」(意訳)


と彼が追認してしまったことだけである。

 

(注5かの悪左府頼長 の甥である。2年前の「真っ当な大河ドラマ」でも兼実は登場した(演:相島一之)。

 

 最近の研究(注6では、この本尊強奪事件の裏側には、興福寺と仁和寺(山田寺は仁和寺の末寺になっていた)との間に領地を巡る争いがあった可能性が指摘されている。先に末寺を横領するという形で仕掛けたのは仁和寺の側であり、山田寺の本尊強奪はその報復だったというのである。道長が訪問してから160年の間に寺が廃れてしまい、ほとんど無住になったところから勝手に持って来たのではなく、それなりに活動のあった寺からの略奪であったということになる。

 領地争いの報復措置だとすれば、兼実が追認したのも何となく理解できる。相手はあの大天狗興業社長 後白河法皇ゆかりの仁和寺。一泡吹かせてシメシメ、といったところかもしれない。
 いずれにしても、法による統治が未熟な「やられたらやり返せ」という自力救済の時代の一コマともいえそうだ。この後、本尊がなくなったからという訳かどうかは分からないが、山田寺はいつしか本当に寂れてしまい、遺跡として今日の発掘調査対象になっている。
 



 その後、東金堂は、隣接する五重塔への落雷火災の類焼を受けて焼失する。応永十八年(1411)のことだ。山田寺から強奪された本尊も頭を残してなくなってしまった。正面写真からはわかりにくいが、左耳上に深いくぼみが残っており、落下の際にうけた衝撃の大きさを物語っている。

 現在東金堂を訪問すると拝観できるのはこの後に造られた本尊である。再建に際しては、焼け残った仏頭も崇拝の対象として台座の下に安置されたらしい。台座が不自然に高いことからの類推だ。



 時代は応仁の乱を経て戦国時代から江戸時代へ。混乱の時代から仏教が形骸化していく時代の中、いつしか仏頭のことは忘れられてしまったのだろう。そして、昭和十二年(1937)、興福寺東金堂の建築の解体修理が始まった。その際、台座内部に納められた木箱の中から仏頭が発見されたのである。火災から500年後のことだった(注7



 こうして私たちは、白鳳期を代表する仏像と対面することができるようになった。このブログをお読み下さっている方々の中には、昨年東京藝術大学美術館で開催された「興福寺仏頭展」 でご覧になった方もおられるのではないだろうか。

 

【再び 木のほとけさまへ】


 タイトルの割には、木造仏の紹介が少なくて申し訳ない。そこで、というわけでもないが、今回の最後にご紹介したいのは斑鳩中宮寺の像 である。この像、広隆寺の弥勒菩薩像 と同様、椅子に腰をかけて右足を左膝に乗せ、右手を頬にあてる「半跏思惟」のポーズなので、弥勒菩薩と呼んでしまいそうだが、寺では如意輪観音像として祀られている。そのため、写真集などでは単に「菩薩半跏思惟像」と紹介される。この半跏思惟像というのは、出家前の釈迦が思索を巡らす像(インドや中国に石像として多く残る)が源流のようであり、飛鳥~白鳳期までしか造られなかったようだ(注8


 「一番好きな仏像」という感想を持たれる方も大勢おられるのではないだろうか。古拙の笑みを浮かべながらも自然なプロポーション、足にかかる衣文がきわめて自然な形で彫り出されていて、今にも風に吹かれて揺れ動きそうである。広隆寺の像のごつごつとした彫りの衣文模様と比べると、少なくとも彫像の技術は格段に進んだということはできる。もちろん、どちらの像がより美しいのか、ということを絶対的に比較することはできないが。


 一説には聖徳太子を敬慕する象徴として、太子の分身として造られたとも考えられているようだ。もしそうだとすれば、この美しい表情には、そういった人たちの優しい気持ちが込められているのかもしれない。

 

(続く)

 

(注4)久野 健 「飛鳥大仏論」 日本仏像彫刻史の研究(吉川弘文館)p2559 (1984) 論文の初出は上述のように1976年「美術研究」300号、301

 

(注6)安田次郎 「東金堂衆と山田寺薬師三尊」 興福寺創建1300年記念国宝興福寺仏頭展 展覧会カタログ p205208 (2013

 

(注7)金子啓明 「銅造仏頭(興福寺東金堂旧本尊)と東金堂十二神将像」 同上 p2233 (2013

 

(注8)金子啓明著 「仏像のかたちと心 白鳳から天平へ」 岩波書店




仏像のかたちと心――白鳳から天平へ/岩波書店
¥2,052
Amazon.co.jp
奇偉荘厳の白鳳寺院・山田寺 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)/新泉社
¥1,620
Amazon.co.jp

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)/岩波書店
¥583
Amazon.co.jp

日本仏像彫刻史の研究/吉川弘文館
¥21,600
Amazon.co.jp