シミルボン・2016年7月11日初投稿
 
『週刊少年ジャンプ』で1997年12号~30号まで連載された『仏ゾーン』は、1996年『サマースペシャル』に掲載された読み切り『仏ゾーン』が元。
読み切りの『仏ゾーン』も、単行本1巻に収録されていて読むことが出来る。
作者の武井宏之先生は読み切り版『仏ゾーン』をこのように紹介している。
 はじめの一掌 仏零(ブツゼロ)「ぼくは千手観音のセンジュ!もれなく救う仏像だ! これが伝説の読切『仏ゾーン』連さい当初のゴタゴタで設定が違っているけど、コマのエピソードもこれを読めばわかるはず。はじめての人も、読んでいた人もおまちかね!世界初の動く仏像まんがを、では、どうぞ。
読み切り版と連載版では、多少設定は変わるが仏の国から、千手観音のセンジュが人々を救うために、人間界にくるところ、仏は魂の存在のため、地上では仏像のを体にして行動を可能にしその仏を「仏ゾーン」と呼ぶこと、仏ゾーンは左腕に刺青に見える「天衣(アーマ)」を持ち、「印」を組み体内を流れるエネルギー「チャクラ」で天衣を操ること、普段は二本の腕が千手観音専用の「千手天衣」で千手になることは同じ。
上記の武井先生の文中にある「コマ」とは、連載版でも登場する狛犬のコマのこと。
 
読み切りでは、病気の弟を持つ少女を救った後、センジュが旅に出て終わる。
連載版ではセンジュが、仏の王、大日如来様の命令を受けて、シャカ様の死後、五十六億七千万年の後(のち)、地上に人として普通に暮らしているまだ悟りを開いてないミロクを守り、悟りを開くべきある場所にまで、お伴する旅をし人々を救う旅に出るため地上に降りて、旅をする話になっている。
五十六億年七千万五年後については、センジュと大日如来様の会話で説明される。
「 センジュ 年とは人の想い、『念』と思いなさい」
「念!!」
「そう━━今まさに地上の人口は五十六億七千万人に達したということです」
西岸寺(せいがんじ)の千手観音に降りたセンジュは、西岸寺に住む女の子のサチが、立ち退きを強いるヤクザから、寺を守っていたのを助ける。
センジュは仏の国で大日如来様から受けた使命をサチと住職に話すが、信じる住職に対し信じないサチ。
サチは雪の降る10年前の大晦日に西岸寺に捨てられ、住職が育てたみなしごだった。
翌日、ヤクザ達は寺を壊す実力行使に出る。
センジュは天衣を使い、ヤクザ達を再び懲らしめる。
恐れおののくヤクザの親分は叫ぶ。
「うおっ ままま まってくれ!!お前がホトケなのは よーくわかった!! そのホトケが なぜ老人や子供ばかり 助ける ホトケが人を えこひいきして いいのか!!」
「……………かんちがいするなよ これでお前が 地獄に堕ちる 可能性は へったんだ ぼくはお前を 救ったんだぜ」
 
センジュの戦いは相手を倒すことではなく救うこと。

悪事を働き地獄に落ちるかもしれない人間の悪事を防ぎ、地獄に落ちる可能性を減らすのだ。
センジュを信じなかったサチは、この出来事で考えが変わる。
だが、サチは、自分が弥勒菩薩様のミロクだと教えられ戸惑う。
サチが考え込んでいると、「仏敵(ぶってき)」「魔羅(マーラ)」がサチを襲う。
魔羅も仏ゾーンと同じく、人間界で仏像の体を借りて行動する。
魔羅から助けてもらったサチは、センジュと旅立つことを決意する。
 
行く先も魔羅達に襲われるが、地蔵菩薩のジゾウに助けられ、旅の仲間となり途中でコマも加わる。
彼らは、仲間の七福神の船で旅を続ける。
船の中人間を救うことが、どういうことなのか悩むサチに弁天が言う。
「みんなが 幸せになればいいのよ」
「無理よ そんなのありえないわ」
「あら?どうして?」
「だって スポーツの試合 だったら 勝ち負けがあるじゃない 勝った人は幸せになるけど 負けた人はかわいそうだわ」
「それは どうかしら?勝利のよろこびは 敗北の『恐怖』になるわ 誰も おちぶれたくないもの でも 負けた人には その恐怖がない… 『安心』して上を ひたすら目指すものよ あなたはどちらが幸せ?」
「!」
「そうよ 幸せは外見じゃないの だって… 幸せは 誰にも邪魔される事のない 自分の心の中に あるんだから」

不幸と幸福とは何なのだろう?サチと弁天の会話を読みながら、受け取り方次第なのではないか?と思った。


船旅で七福神達は魔羅に体をのっとられる。
魔羅になった七福神がセンジュ達を襲う。
なんとか倒すが、そこに同じ仏ゾーンの天竜八部衆の阿修羅王のアシュラが立ちはだかる。
傷つき、海岸に打ち上げられたセンジュ達を助けたのは、改心して西岸寺を建て直し西岸寺で修行しているヤクザ達。
 
一度、西岸寺に戻ったセンジュは、ジゾウと実践修行をする。
その実践でセンジュの天衣が壊れ、センジュ達は恐山に向かう。
イタコにセンジュの体、千手観音像を彫った死んだ仏師を呼んで天衣を直してもらうために。
だが、その道中で出会った馬頭観音のバトウから、センジュの代わりに役目を担ってきたことを聞く。
心傷つくセンジュだが、バトウのほうがサチを守るのに相応しいと、サチの前から姿を消す。
壊れた千手天衣を背負って歩くセンジュ。
その後をコマがついていく。
平気を装うが、転んだとき、地面の蟻を見て思う。
アリに気持ちって あるんだろうか 気持ちっていうのが なかったら どんなにラクだろう 悲しみも苦しみも ないもんな でも・・・ 楽しいことも ないんだろうな そんなのいやだな
蟻を見つめながら、センジュが思う場面は、私自身も心が傷ついた時に思ったから共感した。
「楽しいこと」もないなんて、なんて悲しいのだろうと。
傷つく気持ちがなければ、楽だけど、そんな簡単なことではないんだと。
楽なだけではない。
味気ない悲しみも出てくるのだと。
でも、気持ちがない時点で、それすれも感じないのだろうか。
 
センジュは思い直し、バトウに互いに戦い勝ったほうがサチと旅をすると提案。
挑戦を受けたバトウはセンジュの天衣が直ってからと、先にバイクで恐山に向かう。
遅れてセンジュ達も恐山に着き、イタコのアンナと出会う。
アンナは、アンナは体寄せをして霊の動きをトレスする行動のイタコ
アンナは体寄せした仏師の力で、センジュの天衣を直す。
天衣が直り、センジュはバトウと戦い圧倒する。
降参したバトウは、実は旅に同行するように言われたこと、センジュが情けなくて試したとことを告げ、センジュの仲間となる。
再び旅が始まるが、そこにアシュラが今度は、仲間の天竜八部衆を従え、センジュ達の行く手を阻む。
 
天竜八部衆は魔羅とは違い、センジュ達と同じ仏ゾーンだが、彼らは、人間を救うに値しない存在としていた。
特にアシュラは、シャカ様の教えを忘れた人間を憎み、その人間どもを救うことに疑問を持っていた。
その為、人々を救うセンジュ達の邪魔をする。
アシュラはシャカ様を尊敬していたが、過去の悲しい出来事で消せない憎しみを持った自分を許せず、シャカ様を尊敬すればするほど、シャカ様の弟子として失格ではないかと悩んでいた。
憎しみは慈しみで救われるのか?それは、アシュラの中の疑問だった。
それを試すためにセンジュの大切な仲間達を次々と倒していくアシュラ達。
 
憎しみ。

かつて、アシュラと同じように、憎しみをもった人がいた。
センジュを彫った仏師。
彼は生前、妹おせんを武士に殺され武士を憎み殺した。
その後も、その武士以外の武士も殺し続けた。
だが殺しても、殺しても憎しみは消えなかった。
囚われ牢屋に入られた仏師は茶碗の欠片で牢屋の柱に千手観音を彫ることで、ようやく救われる。
まるで、憑き物が落ちたように「憎しみ」の心が消えていた。
アシュラと仏師が憎しみを持ち、それに支配されたのは、まるで合わせ鏡のように同じに見える。
アシュラ達との戦いの中で、センジュはあることに気づく。
「かわいそうに・・・ ━━今、やっと わかったよ お前は かわいそうな奴なんだ・・・ 」
「なんだと!?」
(涙…)
「さあ ぼくに きみの憎しみ悲しみを全てぶつけるがいい ぼくはそれを まるごと全て受けとめてあげるから」
印を結び、「因果応報」の構えをとるセンジュ。
因果応報は攻撃した者のチャクラを吸収し、相手に打ち返す究極の仏技。
だが、センジュは打ち返すことなく、全て吸収していく。
そこで、アシュラは自分の憎しみのチャクラを全てセンジュが吸収することが目的だと知り、やめろというが、センジュはアシュラの憎しみを全て飲み込むという。
アシュラが疑問を投げるとセンジュは言う。
「ぼくは もれなく救う千手観音 約束だろ?君を必ず救ってみせるって・・・ なんのために きみの その 人を気遣う やさしい表情(かお)が 見たかったからな・・・」
センジュの正式名称は千手千眼勧善観音菩薩
それは千の慈手(じしゅ)千の慈眼(じがん)で この世の全てを見わたし もれなく救うもの
アシュラの憎しみの全てを飲み込んでセンジュが見たアシュラの心は、どんなものだったのか。
慈悲の心は、憎しみに勝つのか。
相手を憎み戦いあうのではなく、慈しみ助け合うことが出来るのか。
人は不幸だと嘆き悲しむが、本当の不幸と幸福は何なのか?の問いかけがこの漫画にある。
残念ながら『仏ゾーン』は打ち切りになった。
でも、私は、毎週『週刊少年ジャンプ』で読むのが楽しみだった。
武井先生の初の連載漫画。
単行本3巻にある武井先生のあとがきも含めてぜひ読んで欲しい。