シミルボン・2016年10月17日初投稿

 

『来るべき世界』は手塚治虫先生が関西時代に書き下ろした最後の作品。
『ロストワールド』『メトロポリス』と並ぶ、初期SF長編3作品の一つとして、手塚ファンの間で愛されている作品である。
この、『来るべき世界』にかける手塚治虫先生の意気込みは、かなりのものがある。

1994年に手塚プロダクションから、ハードカバーで『「来るべき世界」構想ノート』が発売された。
そこには、手塚治虫先生自筆のノートに書かれた話の構想、シノプシス、ネームがある。
何度も書き直し、話を組み直したり、削ったりしている。
文章で書かれたそれは、そのまま小説として読めるのではないか?という内容で、鉛筆で手書きで書かれ、大きくバッテンが書かれていて、手塚治虫先生の試行錯誤が見て取れる。
また、ペンで清書された、おおまかな粗筋もあり、そうかと思えば、映画やドラマの台本のような形で書かれているのもある。

『来るべき世界』は当初『ノア』という題名で、手塚治虫先生が構想を書くのに使ったノートの表紙には、『ノア』と書かれている。
ネームをみると、3コマ漫画で大まかな話の流れが、登場人物の顔が簡単に分かるラフな絵で描かれているが、実際に完成した作品と見比べて見ても、話や絵の印象の違いを感じない。
だが、完成された『来るべき世界』を読むと、コマを使った効果を大いに発揮していることが分かる。
見開きで描かれた混乱する会議の様子、発射したロケットを見上げる様子、ロケットから落ちていくアセチレン・ランプをコマ割りや、コマの形で臨場感を出して表現している。

現代、また後の手塚作品と比べれば、コマ割りは大人しいと思うが、話は練りに練って生み出したのもあって、この遠く離れた3つの国の少年少女、大人達がそれぞれ、遠いところで動いていながら、それぞれの出会い、すれ違い、互いが相手に及ぼす影響力が見事に絡み合い、あの時の出会い、出来事が伏線となり、余分なものがない。
作品内で対立する、スター国とウラン連邦は、アメリカと当時のソ連がモデルだと思うが、どこかしら、無国籍と感じさせる。
しかし、ケン一がいる日本の風景が、この作品が描かれた時代の日本になっていて、無国籍で、遠い未来の話だと思っていたのが、ずっと身近な自分達の世界の話だと感じさせ、読者との距離を縮めている。
無国籍での憧れと身近な親近感を同時に持たせている。

完成された『来るべき世界』は壮大な映画のようだ。
読んでいる途中の、ワクワク感、緊迫感、離れ離れになった人物達、囚われた人物達が再会出来るのかという心配、世界が大変なことになる焦り、バラバラだったのが、集結していく頂上へ登りつめる達成感を堪能させてくれる読み応えの大きさが素晴らしい。
核実験による生物相の変化、それによる突然変異の新人類の誕生、人間の驕り、原子爆弾による核の脅威を伝えても、平和利用で使うから大丈夫という傲慢、つまらないことで始まる戦争などを多くの人間を無駄なく配置し、動かして見せていく手塚治虫先生は、さながら映画監督のようだ。

さらに映画監督のように感じるのは『「来るべき世界」構想ノート』にある手塚治虫先生自筆の『来るべき世界』の映画ポスターのような予告の存在。
そこには、しっかりとあおり文句、キャッチフレーズもあり、出演者のコメントと役者名と役名が書かれている。『「来るべき世界」構想ノート』では、これを「らくがき予告」と紹介しているが、らくがきというのには勿体無い。
そのまま、映画ポスターとして使える予告だと思う。
また、これを見れば、手塚スターシステムを分かり易く受け入れられると思う。

「らくがき予告」は手塚治虫先生の遊び心だが、『来るべき世界』を関西時代の総決算、漫画でありながらも長編映画だという気持ちを持って描いたのでは?と思う。
この大長編、大河の話を書くために、どれだけの構想、シノプシス、ネームを書き、書いては直したか、何度も何度も納得がいくまで、話の下地を生み出したか『「来るべき世界」構想ノート』で分かる。
『来るべき世界』は単独でも充分面白いが、『「来るべき世界」構想ノート』とあわせて読むと、より面白く読める作品だ。