シミルボン・2016年12月10日初投稿

 

 箱庭の世界から外へ

 

 

 


ようやく念願の『約束のネバーランド』の1巻を手に入れた。
1話から読んでみて、話の背景を知って私の頭の中に過去に読んできた漫画作品のいくつかが思い出された。
『約束のネバーランド』では、平和で守られた世界があり、そこに孤児達が養育者のママと一緒に暮らしている。
衣食住が与えられ、ママの愛情に守れて生きる子ども達。
年長者のエマ、ノーマン、レイの3人はママの仕事を手伝いながら、血のつながりのない弟妹達と暮らしている。
彼らは家族のような存在。
全員が白い服を着て、首筋に認識番号(マイナンバー)が書かれている。

広くて広大の敷地には彼らの暮らす大きな家があり、庭があり、森があり、そこで自由に遊び、図書館で本を読み、学習の時間があり学んでいる。
12歳までには里子に出されるので、ママを除けば最年長で11歳以下の子ども達だけの世界。
子ども達は施設以外の外の世界を知らない。
彼らは施設の中にいることで、平和で幸せに守れて暮らしている。
施設の外には広い世界があるのに、赤ん坊の頃から施設で育ち、動物も乗り物も本の中でしか知らない。
大人は子ども達が慕うママだけ。
外の世界を知ることが出来るのは、里子に出される時。

 

 

 


この平和な世界の中に閉じ込められている子ども達を見ていて、まず、思い出したのは、1980年連載開始1989年終了の佐々木淳子先生の『ブレーメン5』。
この作品の主人公ユズが住む世界には手で触れることが出来る世界の果てがある。
空には星や太陽はないが「夜」になると暗くなる。
ユズは仲間と暮らし、日々の食物を育て、家畜を飼育して乳を搾り、搾った乳からチーズを作る。
ジャムも採った果実から作る。
木々があり、山があり、湖があり、自然に囲まれて暮らしている。
平和で退屈な世界。
食料は自分達で作るが、パンだけはユズ達の世界の創生主タシ様から与えられる。

誰も疑問に思わない平和な世界にユズだけが疑問を持つ。
手で触ることが出来る果ての先には何があるだろう?パンは何から出来ているのだろう?空には何もないのになぜ夜になると暗くなるのだろう……。
その世界に果ての向こうから一人の青年タウロが現れる。
タウロは言う、君たちが創生主というタシは研究者。
君達はタシの作った世界に閉じ込められて観察されている実験動物だから、ここから逃げよう、と。
しかし、平和な世界から逃げる理由がないユズの仲間達は戸惑い、躊躇い、断る。
ただ一人、果ての向こうに関心を持っていたユズを除いては。

『約束のネバーランド』の子ども達も『ブレーメン5』のユズと一緒に暮らしていた仲間も安全で守れた世界で生まれ育ち、世界に疑問を抱かず、自分達を慈しみ愛してくれるママやタシに絶対の信頼を置き尊敬をしている姿が重なる。
しかし、そこは外から隔離された世界だった。
自分達がなぜ隔離された世界にいるのか?その事実を知ったときに『約束のネバーランド』の子ども達は脱走することを考える。
『ブレーメン5』はユズ以外は平和な世界を捨てることが出来ず、考えもしなかった外の世界の存在を信じずに作られた箱庭の世界にとどまる。

『約束のネバーランド』では、自分達が閉じ込められた世界にいる理由を最年長の3人、エマ、ノーマン、レイが知り(レイはエマとノーマンから話を聞いて知る)弟妹達も含めての脱走を考え始める。
1巻の時点では、この3人以外は今までの世界に疑念を持たず、脱走も考えていない。
だから、もしかしたら、いよいよ脱走になる時に、『ブレーメン5』で残ったユズ以外の住人のように、平和な世界から出ていくことに抵抗を感じる幼い子ども達も出てくるかもしれない、と思った。

自由に見えるが見えない檻の中にいられ、狭いよく作られた箱庭の世界。
その閉じ込められた世界はどちらの作品も18世紀のヨーロッパのような昔のように見えるのに、『約束のネバーランド』は2045年、『ブレーメン5』は2155年の地球の設定だ。
中にいる人間が、本物の世界だと疑わないだけの世界を作りあげているということを考えれば、どちらも未来の地球が舞台になるのは当たり前かもしれない。

 

 

 


また、閉じられた空間に住んでいるという点では2009年連載開始の諫山創先生の『進撃の巨人』も思い出した。
『進撃の巨人』は、人々が巨人の存在により、塀で囲まれた街の中に住まざるおえなくなり、人々が生きるために自分達から安全な世界を作り出したという違いはあるが、外の世界へと出ようとする気持ちや動きは『約束のネバーランド』や『ブレーメン5』に通じるところがあると感じた。
 

食べる者と食べられる者

『約束のネバーランド』では、年長者のエマとノーマンが外の世界の現実の一端を知ることによって、孤児院を脱走しようと決意する。
エマとノーマンが脱走を決意した理由を知って私が思い出したのは、藤子・F・不二雄先生の1969年発表の読み切り短編『ミノタウロスの皿』。

 

 


地球人の青年がある星に不時着する。
その星はイノックス星。
青年はイノックス星で出会った女性ミノアに恋をする。
ミノアは地球人と同じ外見を持つ女性だったが、その星では地球の牛に似た二足歩行の生き物ズン類が地球でいう人類であり、ミノアはそのズン類が食用とするウスと呼ばれる家畜だった。
ウスは外見が地球人に似ており、かつ言葉を話し、ズン類とも意思疎通が出来ている。
ズン類は愛情を持ってウスを育てて、食用として食べる。
ウスには食用の肉用種の他に愛玩種、労働種が存在している。

自分達と意思の疎通が出来る相手を言葉が交わすことが出来る相手を食べることが出来るのか?それにミノアの生きる目標がズン類においしく自分を食べてもらうこと。
この星ではこれが当たり前のこと。
しかし地球人の青年は残酷な行為だとしてミノアが食べられることを阻止する。
これが地球で、他の惑星の人間、それこそズン類が自分達に似た外見の肉牛を見て、食べられるために育てられているのを知れば、地球人に牛肉を食べさせるのをやめさせる行動をとったことになる。
その時に地球人は、その行為を残酷な行為として聞き入れるだろうか。

イノックス星と地球の違いは飼育している動物が同じ言語と文化を持っているかいないかだろう。
イノックス星の食用種のウスはズン類と同じように言葉だけでなく、服も着ているし、道具も使っている。
飼育されているとはいえ、住居が与えられて自由に生かされている。
地球でも愛情を持って牛を飼育し世話をする。
しかし、同じ言葉や文化を人間と牛は持ってはいない。
明らかにそこには食べる人間、食用の牛という線引きがある。

おそらく、イノックス星でも地球人にはない感覚での明確な線引きがあるのだろうが、それは地球人の感覚とは違うのだろうと思う。
だから、青年の気持ちは同じ言葉を持っていてもイノックス星のズン類には通じない。
青年は思う。
 

言葉は通じるのに 話が通じないという…… これは奇妙な恐ろしさだった

 

生きるための欲求が罪に変わる

生き物は別の生き物の生命を食べることで生きている。
植物だって生き物であり、その命を食べていることにかわりはない。
しかし、人は自分達と対等な生き物を食べることが出来るのだろうか。
それは、極限状態になった時に食べざるおえなくなった時に出てくる究極の選択。
それを描いたのは、1950年連載開始1954年終了の手塚治虫先生の『ジャングル大帝』や1977年の藤子・F・不二雄先生の読み切り短編『カンビュセスの籤』(『藤子・F・不二雄異色短編集箱舟はいっぱい』収録)、1972年連載開始1974年終了の楳図かずお先生の『漂流教室』等の作品が思いつく。

 

 

 

 


この流れで思い出したのが1971年連載開始1975年終了の手塚治虫先生の『鳥人大系』。

 

 

 


『鳥人大系』は人類の変わりに進化した鳥が人間のようになり鳥人となって社会を形成していく。
人類は鳥人に文化を奪われ家畜として生きる世界。
話は章ごとに違うが、それが鳥人の歴史を読むような形になり人類の歴史を振り返っていくような錯覚を感じさせる。
第15章「赤嘴党(せきしとう)」では、猛禽類がそれまで食料としていた鳥を同じ鳥人の同胞として食べることを重罪としている社会を描く。
それを取り締まるモッズ警部は猛禽類であり、食肉部族。
ヒナの子を見て湧き上がる食欲の本能を何とか抑制している。

人間と同じ社会を築く以前であれば、『ミノタウロスの皿』のように食べる者と食べられる者の関係は、当たり前であり、何も悪いことではなかった。
それが、人間と同じ文化を持ったがゆえに生きるために食べることが「重罪」となる社会。
これは、殺人という犯罪が戦時下においては職務になることと反対だ。
社会や文化というのは、それまでには罪でないことも、罪になり、罪なことも罪ではなくなるというように、認識を変えてしまうものなのかもしれない。

 対等な者を食料にする

極限状態で他に食べる物がなくて対等な者を食べていた『ジャングル大帝』『カンビュセスの籤』『漂流教室』とは違って、同じ鳥人を食べなくても済むのに、本能に逆らえない食欲で食べてしまう『鳥人大系』の「赤嘴党(せきしとう)」の話の方が『約束のネバーランド』の鬼と鬼の食料の人間に近いかもしれない。
『約束のネバーランド』では鬼と呼ばれる人間とは外見が異なる異形の生き物が人間を食料にしている。
ママは彼らの食肉として提供するために子ども達を育ている愛情を持って。
自分達と同じ種族、同胞を食べる訳ではないが、鬼とママは会話が出来ている。
また、ママの外見は人間である。
自分と同じ人間、愛情を持って育てた我が子同然の子ども達を食料として、鬼に提供することが出来るのだろうか、これは『ミノタウロスの皿』のウスとズン類の関係とも微妙に違う、鬼に食料として子ども達を提供するママは、どちらかといえば、『鳥人大系』の同胞となった鳥人のヒナを食用として提供する鳥人に近いように感じる。

『約束のネバーランド』でママの正体を知った、エマとノーマンは思う。
 

なんであんなに優しくしたの?――――ママ

 

『ミノタウロスの皿』はウスは食べられることを知っていて育ち、おいしく食べられることが誇りであり目標でズン類との信頼関係がある。
『約束のネバーランド』にはそれがない。
子ども達は食べられることを知らずに育ち、未来を信じて生きている。
食べられることを承知しているのとしていないのでは大きな違いがある。
『鳥人大系』に近いと書いたが『鳥人大系』で食用に闇で食用にされているヒナはいずれは食べられてしまうという恐怖を持っているが、食べられることを知っている点で『約束のネバーランド』の子ども達と違うようにも思う。
 

外の世界 
 

安全で守られた閉じられたよく出来た箱庭の世界。
食用として育てられていることを知らない子ども達。
『約束のネバーランド』ではそのような社会になったのは、この漫画の世界の時代2045年から見て30年前の2015年だと推定される。
この30年の間に人間が異形の鬼の食用として生かされ、それを養育する大人が数人いて、孤児院として存在しているいくつかの農園で飼育をしている。
これは、『鳥人大系』で鳥が人類に代わって鳥人の文化を築いてそれまでの鳥の歴史のモラルを変えてしまったのと同じような、地球の歴史の変化があったのかもしれないと想像させる。

食べるため、食用の為に愛情を持って育てること、それが自分達と同じ姿の者に対しても、いずれは食べるために殺すことを人は受け入れることが出来るのか、また、自分が生き延びるためにそれが出来るのかと考えさせられた。
また、危険が待っている外の世界に出て行くことと、平和で安全な箱庭で生きていくのは、どちらが幸せなのかということも考えさせられ、社会によってモラルが変化していくことに、普通とは何かを考えてしまった。

『約束のネバーランド』は過去に私が読んできた漫画の中にかかれたテーマやモチーフを使いながらも、また少し違う視点を持ち込み、独自の世界を生み出している。
今月(12月)に1巻が発売され、2巻は2017年2月3日、3巻は2017年4月4日に発売予定だ。
怒涛の刊行に原作者の白井カイウ先生と作画の出水ぽすか先生の体調などが心配されるが、この『週刊少年ジャンプ』連載中の新しい作品がここまで私が書いた作品から感じた難しい問題をどのように漫画の中で展開して見せてくれるか、とても楽しみでいる。