ああ ベルサイユ
 

私はこれまで3種類の『ベルサイユのばら』を見ている。
最初は子どもの頃に見た1979年アニメ版『ベルサイユのばら』。
次がNHKBSで放送された1991年宝塚歌劇団月組『ベルサイユのばら・オスカル編』。
そして短大時代に読んだ漫画『ベルサイユのばら』(『週刊マーガレット』1972年5月21日号~『週刊マーガレット』1973年12月23日号連載)
この3種類の中で、一番ラストが衝撃的だったのが、漫画だった。

アニメも宝塚歌劇団もオスカルを主役にしているので、オスカルが死ぬところで終わる。
1974年初演は現在のトップスターがダブルトップスターになっていて、当時の2人の月組トップスターの大滝子さん(49期生)がフェルゼン、同じく月組トップスターの榛名由梨さん(49期生)がオスカルを演じた。
当時の公演を見ていた人の話では、トップ娘役の初風諄さん(47期生)が演じたマリー・アントワネットが主役のようだったとある。
初演が一番漫画に近いらしいので、ダブルトップ時代だからこその公演だったのだろうと思う。
アニメはオスカルの死後もロザリー達の姿をダイジェスト的に描いているが、話の本筋は終わる。
宝塚歌劇団は「オスカル編」「オスカルとアンドレ編」「アンドレとオスカル編」はオスカルの死で幕を閉じる。
なお、宝塚歌劇団の場合は主役をフェルゼンに変えた「フェルゼン編」「フェルゼンとマリー・アントワネット編」等がある。
ちなみに宝塚歌劇団でつくサブタイトルは、トップスターが演じる主役名が先にくる。

『ベルサイユのばら』は1974年8月に月組で初演されてから、花組、月組、雪組、星組、宙組の各組で幾度にも渡ってその時代のタカラジェンヌ達によって再演されている人気演目である。
私が見ていない1991年月組以外の『ベルサイユのばら』がどのような舞台であったかは分からないので、宝塚歌劇団に関しては1991年月組のみの感想である。
これらアニメ、宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』の元になったのが、漫画『ベルサイユのばら』。
私が最後に知った『ベルサイユのばら』本編の結末は、これまで私が知っていたオスカルの壮絶な死で幕を閉じた『ベルサイユのばら』とは違うものだった。
 

素っ気なく感じた漫画のラスト
 

オスカルの死はどれも共通していて、最後に寂しさや悲しさを感じるのは同じ。
漫画は架空の存在だったオスカルとアンドレが死んだ後の話は、ほぼ史実通りにマリー・アントワネット処刑に向かって話が進む。
マリー・アントワネットの処刑までは、マリー・アントワネットの心の揺れ、戸惑い、恐怖の中でも気高く凛々しくあろうとしそうした気高さが描かれている。
子ども達との別れ、幼いルイ17世が母、マリー・アントワネットが悪者だと教えられていく姿に悲しさを感じた。
フランス革命の顛末は知っていたので、私は淡々と読んでいったが、マリー・アントワネットの処刑後を読んで、ラストページのコマを見た時に、こんなにも呆気ないものか!と衝撃だった。
私の衝撃とは対照的に話は淡々と進み、最後の主役フェルゼンが描かれる。
華やかで煌びやかだったフェルゼンがゴミのように捨てられ誰にも看取られることなく、劇的な演出もなく終わっていく。
漫画はルイ17世の史実の恐ろしい劣悪な環境の中での虐待、性的虐待を描いてないだけに、この突き放した事実のみを描いたフェルゼンの最期は、ここまで漫画を通して登場人物達に心を通わせていた読者の私にとって衝撃だった。
人々の不満、怒り、死の呆気なさ、虚しさ。
華やかな世界で、素敵な人達であるからこそ、その対比で死が恐ろしく残る。

オスカルの死の寂しさと悲しさはあっても、国を思い市民側につき信念に生き、先に逝ったアンドレの元へ逝ったオスカルを思う時、ロザリー達がマリー・アントワネットが作った造花の白ばらを手にオスカルを語る姿にしみじみとした穏やかな気持ちになったアニメ。
華やかなフィナーレで幕を閉じる宝塚歌劇団。
この2つとは違う悲しさを感じさせた漫画。
ラストが違うだけで、こんなにも印象が変わり、心に残る色も形も違うのか!
アニメも宝塚歌劇団もアニメ化、舞台化にあたり、漫画をどこまでアニメ、舞台にするか、どこをラストにするかで漫画とは違う結末になったのだろうと推測する。
宝塚歌劇団の場合、「オスカル編」「オスカルとアンドレ編」はトップスターが主役オスカルを演じるので、オスカルの死後の話を舞台にする意味がない。
だからこそ、フェルゼンを主役にした「フェルゼン編」や「フェルゼンとマリー・アントワネット編」が作られたのだろう。
アニメも漫画がオスカルの死後も、マリー・アントワネットの処刑までを劇的に描いていたのを知ると、主役オスカルの死後はマリー・アントワネットの処刑までは語りだけであっさり終わらせた印象に変わった。

 

『ベルサイユのばら』の世界から現実に引き戻す
 

漫画は元々、池田理代子先生が史実のマリー・アントワネットに魅せられてその魅力を描きたいことから始まった作品。
 

――月並みな質問ですが、まず『ベルサイユのばら』執筆のきっかけを教えてください。
池田 高校生の時、シュテファン・ツヴァイク(※オーストリアのユダヤ系作家・評論家)の『マリー・アントワネット』を読んだのがきっかけです。いつか彼女の話を描きたいと思っていて、連載の話がきた時に提案したんです。(『大人の少女漫画手帖 黄金時代少女マンガランキング』25ページ池田理代子インタビューより引用)

 

 

 

 

 

 


引用したインタビューの中では、オスカルの死後、編集部から連載を10週以内でたたむように言われ、オスカルの死後は読まないという読者の存在があり、池田理代子先生が、苦労しながらもマリー・アントワネットの処刑までを10週以内に収めたこと、その後のフェルゼンのエピソードも描きたかったが描けなかったことも話されている。
心残りがあったにせよ、そもそもマリー・アントワネットの話を描きたかったから、オスカルの死後も話は続き、漫画でも史実のフランス革命でも主要人物であり、マリー・アントワネットの恋人でもあるフェルゼンの最期まで駆け足になっても描いたのだ。
本編で描けなかったフェルゼンのエピソードは連載終了から40年経ってから描かれた。
それは、コミックス11巻に収録された。

 

 


過去の出来事は現代の私に生きる中では、文字と数字だけの出来事だが、そこに書かれていることは現実の人間が体験したこと。
そこに生きる人の感情や生活を描くことで、感情を共有し、時代も国も違っても同じ感情を持つ人間が生きてきたことを実感させる。
その同じ人間が作り上げた出来事が、後年の私たちに事実として伝わっていく。
漫画を通して現実の私と同じ目線の感情になっていた物語が、突如、単なる歴史の事実として語られて終わる時に、これは虚実が入り混じったフィクションでありながら、事実を描いた歴史漫画でもあったのだ、と目が覚める。
まだ描きたかったエピソードが多くある中で、話をたたむしかなかったのが物語の最後で突き放したような印象を与え、それが結果的に現実を突きつけた。

「これは事実である」

『ベルサイユのばら』の世界から現実に引き戻した漫画『ベルサイユのばら』。
その瞬間に現実に恐ろしい出来事が起きたのだ!と深く心に残る。
アニメや宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』も大好きだが、漫画を最後に読んで大元の漫画『ベルサイユのばら』の凄さにおののいた。
それぞれ表現方法の違う『ベルサイユのばら』を結果的に比べたことで作品の特に漫画『ベルサイユのばら』の奥深さを知ることが出来た。