僕をPTSDにした母親を切った時、母親になってもらった薬局のおかあさんは花が好き。

時々、プリントしてあげている。 母と和解し、今はふたりの母とも花が好きだ。 

「曼殊沙華」ーまんじゅしゃげーは「彼岸花」ーひがんばなーとも言います。

 

 明治時代に火葬する事が決まるまでは村の近くの共同墓地にただ埋めるだけでした。 

だから動物が掘り返してしまう事があったそうです。 

そこで、この花を植えると、彼岸花には毒性があり、動物たちは知っていたのでお墓のまわりには、たくさんの彼岸花があったのです。 

今でも古い昔からのお墓には、彼岸花がたくさん咲いています。 

でも、それこそが借りていた肉体を地球に返す自然な行為でした。 

しかし、寺が儲けるために発案したのだと思いますが、借りていた肉体を狭い部屋に入れられ、骨になるまで燃やされるようになってしまいました。 

 

今なお残る「死」の錬金術は、医師と葬儀屋と石材屋と仏壇屋と坊主が情報を共有し、それはチームのように「死」からカネを引き出させる訳です。 

「死」は家族や友人たちで自然に返すだけだったのに、明治からは莫大なカネのかかるものへと変えられました。 

そして坊主は、何周忌だと言っては50年もランニングコストまで取る訳です。 

 

戒名も読む経も全てはカネしだいです。 

一番高い経が「法華経」であり、僕でも読めます。 

そのような姑息なやり方に対しても、僕は寺を嫌うのです。 

 

5000年前からある神社に墓が無いのは、大地に戻る事が自然であるからであるからです。

 特に「仏壇」は死別した人の精神が家族を気にしていついてしまい、残された者は仏壇と遺影を見る度に悲しまなければなりません。 

お互いにとって最も不幸であり、新しく愛してくれる人が現れた場合、心配で残った故人の精神は邪魔をするかも知れないし、残された者は、まるで悪い事をしているような罪悪感にさいなまれます。 

全てはひと時も止まらず変わるのです。 

好きな相手も変わるのが自然です。 

思い出しました。。「諸行無常」ーしょぎょうむじょうー。。全ての事は変化してあたりまえなのです。 

仏壇など、百害あって一利なしです。 

「死」にまで損得を持ち込み、カネカネカネとはなんとあさましいことよ。