黒瀧山不動寺と先代旧事本紀大成経(その二) | 異界行

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オカルト歴ン10年の著者が、過去に行ってきたミステリースポットの調査内容を報告します。

前回に続き、黒瀧山不動寺参拝時のレポートをします。

前回は境内案内がメインだったので、今回は著者が参拝する動機となった「先代旧事本紀大成経」について考察していきます。

 

まず、日本の最古の歴史書と言えば「古事記」と「日本書紀」が挙げられるが、実はそれ以前に「先代旧事本紀」という史書もあったとする説もある。

 

<先代旧事本紀>

日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。
序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。現在では大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている。
物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価する立場の者もいる。

 

そして、

<先代旧事本紀大成経>
1679年(延宝7年)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)と呼ばれる書物が発見された。この大成経の内容が公開されると大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。しかし、大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるようなものであることがわかり、内宮・外宮の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めた。
1681年(天和元年)、幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海、偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰した。後に大成経を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止された。しかし、幕府の目を掻い潜って大成経は出回り続け、垂加神道などに影響を与えている。

 

ここで登場する潮音道海が黒瀧山不動寺の中興の祖であり、開山堂はこの潮音を祀っている。

徳川将軍家も帰依するほどの高僧で会った潮音は、仏法を極める過程において神道の造詣も深め、「神・仏・儒」の三位一体こそ根本原理と考えるようになった。

その潮音に「先代旧事本紀大成経」(以下・大成経と記す)をもたらしたのが、地元群馬の神道家・永野采女である。

永野は長野でもあり、この上州長野氏はもとは「石上氏」を名乗った物部氏の流れであり、さらには伊勢国の磯部氏(出雲系)であるともされる。実際、群馬には温泉で有名な「磯部」の地名もある。

この磯部氏が祀っていたのが、志摩一宮「伊雑宮」である。

伊雑宮(2013年9月参拝時の写真)。

伊勢神宮内宮の別宮とされるが、一部には「本当の伊勢神宮」とする噂も絶えない。つまり、内宮外宮が伊勢の地に鎮座する以前から存在した物部系の伊勢神宮であるとする説である。

そして大成経が世に出る20年前、この伊雑宮の神官が上述のように「伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものである」と主張していたのである。

そして、上州長野氏が伊雑宮と関連のある磯部氏の末裔であるので、氏族の秘伝書として大成経を所持しており、その内容がまさに伊雑宮の主張と一致するものだった。

これに伊勢神宮が激怒。江戸幕府に圧力をかけ、大成経を「偽書」と断定して発禁処分とした。

当然、潮音も処罰を受け、上州黒瀧山に蟄居の身となったとされるが、この処罰は形式的なものであり、黒瀧山不動寺は大いに栄えた。

そして、不動寺には大成経の正部にあたる40巻の刊本および72巻の写本が今も揃っているという。

それだけではない。写真は潮音の寿塔(墓所)だが、ここに正部に続く続部34巻の刊本があるらしい。

墓所は分厚い石の壁で「封印」されている。この奥にある続部には、すでに世に出ているものとは異なる「真理」が書かれており、その内容故に封印されているのであろうか?

 

開山堂周辺。深山幽谷の世界である。

見づらいが、邇藝速日命の碑である。やはり、物部氏との関連が偲ばれる。

これも歴代墓所であろうか?

黒瀧山には三つの巨岩がそびえ立っている。潮音の命名で「日東岩」「星中岩」「月西岩」と称される。

現地で見た限りではどれがどの岩なのか分からないが、大成経および伊雑宮の主張である「日・月・星」の三神を祀る本来の伊勢神宮の姿である。

聖書学で言う「日の栄光」「月の栄光」「星の栄光」と一致する。

 

その後、境内を下って寺務所兼売店で御朱印を貰おうと受付の方らしい女性に声を掛ける。

そこで、どこから来たか?南牧村は初めてか?とかありきたりの会話をした後、ここへ来た理由を聞かれたので、持参したムーを取り出して「この記事を見て来ました」と伝えたところ、大層喜んでくれて、その後御朱印を書くために住職が来られた時も「ムーを見て来てくれた方ですよ」などとわざわざ紹介してくれた(笑)。

よく見ると、売店の土産物の棚にもその号のムーが置いてあった(笑)。

御朱印をもらいがてら、住職と何か話をしてみようとしたが、ぶしつけに秘伝書の「神道灌伝の巻」を見せてくれとも言えず(当たり前)、試しに前年に伊勢神宮の遷宮に参拝して、さらに伊雑宮にも参拝して来たことをサラッと伝えたが、「ほほう」と感心されただけで終わってしまった(汗)。

それとは別に、不動寺では予約制の「普茶料理」と言われる精進料理を頂くことも出来、その料理を食べに来ることを熱心に勧められた。寺を後にする時も、その料理の特集をした上毛新聞を持って追い掛けてくる始末(笑)。新聞をありがたく受け取り、次回、料理を頂きに来ることを住職に約束して、黒瀧山を下った。

そして、2016年現在、まだ約束を果たしていない(汗)。冬になれば降雪でとても行けなくなるので、今年の早い内に時間を作って行きたいものだが。そして、今度行く時は住職へ聞きたいポイントを絞って質問を用意して行こうと思う。