セント―サ島といえばシンガポール観光の目玉の一つだが、ここの戦争資料館で売られている公式写真記録集「日本の占領1942-45」(シンガポール政府公文書館発行)の中の日本側戦争指導指導者、5人の将軍のうち2人までが誤載されている疑いがこい。

昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発と同時に当時の南方軍総司令官、寺内寿一大将指揮下の第25軍山下奉文中将そしてその隷下の第5軍師団長松井太久郎中将、第18師団長牟田口廉也中将、近衛師団長西村琢磨中将の軍将兵が電撃作戦でマレー半島を南下、3か月たらずでシンガポールを陥れた。写真集は、この5人の顔写真を英国軍司令官、パーシバル中将ら4人と対比して載せているが、日本側2人の写真が誤っているようだ。完全に誤っているのは松井太久郎師団長の写真で、義理の娘にあたる作家の中島みちさんは、はっきりと「これは義父のではなく、松井石根大将です」と証言している。

もう一枚は西村琢磨師団長の写真である。西村師団長の御家族、関係者は、全体の骨相などから別人とみておられるが、絶対的な証拠になるものはない。この写真の出所は豪州の戦争資料館からのものらしく、、西村師団長はその後豪州マヌスBC級裁判で死刑を宣告され刑死されている。そこで家族の中には収容所時代の苦労から顔相が変わってしまったのかとみている方もいる。しかし、どうみても別人である。この5人の写真はパネルにされてセント―サ島戦争資料館の説明コーナーにも飾られている。

ところで、おかしなことは、この西村師団長と同じ写真が「居安思危」というシンガポール中華総商工会編の記録集の中では松井太久郎師団長として登場している。そして写真集の中では松井太久郎師団長(実際には松井石根大将)とされている写真には西村師団長のキャプションがつけられている。このシンガポール総商工会は、日本軍の占領直後の虐殺(華僑側は5万人から十万人)に絡む補償要求(血償)で、昭和41年、日本政府から約60億円の無償供与と円借款を得ている団体である。シンガポール市内の海岸通りにある記念碑公園にある高さ120㍍の「日本占領期死難人民記念碑」は、この時建てられた。

戦後66年、マレー電撃作戦、マレー沖海戦の大勝利は、当時の国民学校の国語の教科書にも登場したが戦後、進駐軍の命令で抹殺された。そして、その時の勝利の立役者の将軍たちの名前は忘れ去られ、、間違って伝えられても、それに抗議する日本人もいない。