「黒岩通」のその後の行動について、残念ながら日本側の記述はないが、たまたま筆者が所蔵している二冊のインドネシア語の本に彼の活躍ぶりが記されている。その一冊「Belanda gagal rebut P Berandan}」(o和蘭パンカラン.べランタンの奪取に失敗)によると、黒岩隊長は”ブシンドー”の隊員を指揮して、日本の武器弾薬を北スマトラ州の石油基地に運び,焦土作戦で和蘭が同基地を奪取する前に破壊している。

一方、別の一冊「Jihad Akbar di Medan Area」(メダン地区での大聖戦)では、黒岩隊長が、1947年の和蘭の第一次軍事行動に当たって、メダン戦線でインドネシア軍の影の参謀役として活躍している。なお、この本の中には「黒岩隊長のほか樋口修氏ほか数名の日本人の名前も出てくる。

「黒岩通」は実在の人物ある。前記「和蘭パンカラン.ベランダン奪取」の本には、戦後撮ったと思われる「「Kuroiwa Mohdd Ali」の写真が載っている。戦争中「黒岩通」はMohd Aliという回教名とアチェ語で村長とい名前を使用していた。

もう一つの本「メダン地区での大聖戦」の著書、Amran Zamazarami氏は、戦後昭和39年に東京で「黒岩通}に会った会見記を載せているが、その中で「黒岩通」は!自分の実の名前はKishiだと語っている。戦争中、諜報関係者は偽名を使用しているケースが多いので「黒岩通」とカッコにした次第である。

「黒岩通」の復員の日時もはっきりしない。スマトラからの復員は昭和22年10月が最後である。和蘭の第一次軍事行動に参加した彼が最後の復員船に乗船したとは思えない。「阿知恵会}の名簿にもない。

ちなみに「黒岩通」が”ブシンドー”の隊員たちを訓練したロンガ海軍基地は2004年のスマトラ沖大地震で壊滅的な被害を受けている。