記事にならなかった事件

昭和20年1月「スマトラ新聞」は、編集部門をパダンから50㌔ほど離れた山の中の町パダンパンジャンに移した。前年の9月ごろから戦局が悪化、連合軍のパダン市内に対する艦砲射撃やインド洋上からの空襲が始まり、セメント工場などが破壊された。このため「スマトラ新聞」は事務部門を残してパダンパンジャンに疎開した。

疎開してまもなくの2月、パダンとパダンパンジャンをつなぐ鉄道の鉄橋を走っていた列車が川に転落、数十人が死傷する大事故が発生した。オランダのスパイが仕掛けたサボタージュで鉄橋の犬釘が抜かれて崩壊したのが原因だった。菊池記者は同僚と共に事故後現場へ行き犠牲者の救出活動にあたった。現場は日本人が“彼岸の滝”と呼んでいた滝の近くであった。しかし、この事故は軍の命令で一切新聞には報道されなかった。

戦局はさらに悪化し、昭和20年5月、インドネシア在住の適齢の民間人全員に召集令状が出された。体格が悪い(丙種)ことから兵隊にとられなかった菊池記者も現地招集されて、インド洋警備の淀兵団に入団した。敗戦までの3か月、菊池記者はペンをシャベルに替えて海岸の陣地構築にあたった。