アジネゴロ主幹

アジネゴロ主幹は当時50歳ぐらい。小柄で寡黙な人だった。ふだんはあまり原稿は書かなかったが、ここ一番のときに書いた社説は大変な人気で、新聞の売れ行きも良かった。菊池記者が記憶しているのは昭和19年6月サイパン島が陥落した時のアジネゴロの社説である。アジネゴロは社説で要旨次のように書いた。「サイパン陥落は日米決戦における重大な転換期になるのではないかー。インドネシア国民はサイパン陥落以後、日本政府と日本軍がどのように考え、行動するか興味深く注視するだろう」この社説に対して現地の大第25軍司令部から”日本軍が死に物狂いで戦っているのに、興味深く注視するとは何事かとクレームがつき、アジネゴロを首にしろという意見がでた。結局、この社説事件はパダン軍宣伝班と「Padan Nippo}」の日本人通訳山田が間に入って、アジネゴロを処分すれば民衆が暴動を起こすかもしれないと、処分は保留となった。しかし、これでは収まらい軍はその代わりに、普段からインドネシアの独立に同調的な「スマトラ新聞」の石沢編集局長を東海岸州のメダンにある華字紙「北スマトラ新聞」の代表に転出させた。

菊池記者によると、アジネゴロは昭和18年11月、東京で開催された大東亜会議にスカルノ,ハッタとともにインドネシアオブザーバーとして参加したという記述があるが確認されていない。しかし、アジネゴロは西スマトラだけでなくインドネシア全体で著名なジャーナリストであった。独立後アジネゴロはインドネシア国営通信社「アンタラ」の社長に就任した。