「Sumatora Nippo」

「スマトラ新聞」のパダン本社があったところは、オランダ時代「ラジオ新聞」とう名の現地語の新聞が発行されていた場所である..この「ラジオ新聞」の発行主は,マジッド・ウスマンという西スマトラバトウ・サンカルのダトウ(王様)出身の有力者であった。ウスマンはオランダによる植民地支配に反対で、戦前日本に留学、明治大学を卒業後、日本の女子大出の長田周子さんと結婚している。ウスマン一家は大東亜戦争勃発と同時にオランダ官憲によって夫人子供ともどもジャワに監禁れたが、日本軍のスマトラ占領後、故郷に帰った。日本語が堪能なこともあって、ウスマンは矢野知事の最高顧問に就任「ラジオ新聞」も「Sumatora Nippo}」と名を変えて発行を続けた。しかし、菊池記者が18年9月、パダンに赴任した時には、事情があってすでにウスマン夫妻は矢野長官の勧めで西海岸州政府顧問の資格で東京に移送になっており、菊池記者との接点はない。菊池記者の著書によると、「Padan Nippo} は週に二回発行されていた。」菊池記者は情報交換のためヤニという若い記者と日常仲良くなったが、菊池記者の一番記憶にあるのはアジネゴロという論説主幹だった。

アジネゴロは当時年齢50歳ぐらい、小柄で目が鋭く寡黙な人だった。老練のジャーナリストで読者の人気がたかった。あまり原稿は書かなかったが、ここ一番というときの社説は大変な人気でその日の新聞の売れ行きが良かったという。