第二次大戦中、日本占領下の製紙工場を調査研究している篠木精二氏(株式会社大倉用紙店OB)に同行、平成17年12月、スマトラ各地の工場跡を見てまわった。

戦後60年以上を経過して建設した工場跡が果たして突き止められるかどうか疑問であったが、幸運にも発見でき、当時使用していた手漉きの池やパルプ生産用の石製の粉砕機まで残っていた。

まず訪れたのはララス(Lalasni)にあった王子製紙のスマトラ工場。ここは昭和20年4月8日から操業を開始し、新聞用紙など日産4トン半を生産していた。ララスといっても普通の地図には載っていない。私の友人ITM(メダン工業高等専門学校)のシャフルーム氏がアサハン出身だったので、同地方に詳しく、和蘭時代の製麻工場跡であることを知っていた。

メダンを出発してトバ湖に向かう国道を約2時間半、108キロの地点を左折して、さらに15キロの地点にララスはあった。現在はインドネシア政府が油椰子(kelapa sawit)農園に使用していた。さすがに製紙工場があっただけに水量が豊富な場所だった。農園の幹部は皆、ここに和蘭の製麻工場があったことも、日本が紙を作って至ことも知らなかった。しかし、一人自分の父親が昔、日本の製紙工場に勤めていたという52歳の男が"その場所を知っている"と、我々が乗ってきた車をオートバイで先導してくれた。その場所は油椰子農園よりさらに奥で、今は、牛が飼われていた。

先導の男は工場の礎石が残っているといったが、よくみると古代人が使っていた石貨のような形をしていた。(後日、篠木氏が東京の製紙博物館で、この石はパルプ用の粉砕機であることを確認した)さらに本物の礎石も草むした中に残っていた。