私(ゲサン)は半月ほどスラバヤにいたが、観衆の"憧れの星”であった。 その頃のある日、劇団主のヨング氏から呼ばれ、「赤い橋」という題で新曲を作ってくれないか、と頼まれた。当時、私はスラバヤについては、まだよそ者で「赤い橋」がどこにあるのか本当に知らなかった。

ある早朝、私はべチャに乗って「赤い橋」へ向かった。私の宿舎からは2キロほどだった。私がちょっと考えにふけっていると、突然べチャ引きが”だんな、「赤い橋」に着きましたよ”といった。私はべチャから降りて驚いた。左右を見渡しながら、頭の中で自問した。「赤い橋」ってどこなのだろうか。そのあと私はたまたま通り人に「赤い橋」の場所を聞いてみた。”あっちだよ”-と男が方向を指さした。しかし、川は見えなかった。あるのは、小さなブリキだけ。水はほとんど流れているように見えなかった。橋は普通の橋でしかなかった。橋の欄干は,薄暗く汚かった。にもかかわらず、名前は「赤い橋」である。どこが赤なのだろうか。私はこんな小さな橋がスラバヤで有名なのに驚いた。スラバヤの人はみんな「赤い橋」を知っている。ちょうどソロの市民が「ブンガワン・ソロ」を知っているようにである。

しかし、この橋で何か語れるものであろうかー。この橋で自慢できるものがあるだろうかー。繰り返し、繰り返し、この問いが私の脳裏を行き来した。しかし、私はこれに回答することは出来なかった。その時、私が橋の周囲で見たものは、大きな建物群が、あたかも橋をめぐる屏のようであった。

私はいかにして「赤い橋」の歌を作詞作曲できるか、いつまでも考えた。その時は「赤い橋」を下見した結果を劇場主に報告する勇気がなかった。しかし「赤い橋」のタイトルで歌劇を上演したいという劇場主の予定はまじかに迫っていた。