先年死去した「ブンガワン・ソロ」のゲサンの代表作の一つに「ジュンバタンメラ」(赤い橋)がある。スラバヤに実在する橋だが、この歌を作詞作曲した経緯について、ゲサンが自叙伝「Gesang Tetap Gesang」(T Wedy Utomo)=未刊=の中で次のように書いている。


「日本の占領時代「Bintan Surabaya」(スラバヤの星)という歌劇団がジャワ各地で興行を行っていた。こn劇団はソロへ来ると、数か月も各種の興行をした。劇団がソロにいたとき「ブンガワン・ソロ」の歌劇が上演され、大変な人気を博した。当時私(ゲサン)が作曲した「ブンガワン・ソロ}の歌はソロで大ヒットしていた。この歌劇はソロで一週間上演されたが、地元社会では大きな関心を引いた。数千人の人が見にでかけた。

歌劇の公演に先立って「スラバヤの星」劇団持主のフリッツ・ヨング氏が”すぐに会いたい"と私を呼んだ。私の仕事は「ブンガワン・ソロ」のほか「Sapu tangan」(赤いハンカチ)など私の作曲した歌を歌うことであった。ヨングは十分なギャラを私に提示した。

ソロの公演の後、私は「スラバヤの星」劇団についてジャワ各地の巡業に出ないかと誘いを受けた。巡業は例えば、スマラン、プカロンガン、ジャカルタと周り、最後に本拠地のスラバヤに戻るというものだった。スラバヤでは私の作曲した歌劇「赤いハンカチ」が上演されたが、私は歌手としていつも舞台にたった。沢山の観客は、私の歌を聞いて目に涙しているようであった。私自身も歌いながら、涙し、しくしく泣くこともあった。私が涙sて歌うのを見て監修も涙を誘われ、自分の座席にクギづけにされた。

観衆の中には舞台へ上がり感動のあまり私を抱きしめるものもあった。そのあと、その観衆は全観衆に向かって私と一緒に歌うよう呼びかけた。終わりの歌は「ブンガワン・ソロ」であった」