メダンの西スマトラ州知事庁舎(戦時中の東海岸州庁舎)から少し奥に入ったところに“メダン・クラブ”の建物がある。この建物は、かっての紘原神社である。ちょっとみたところ判らないが、たしかに、このあたりにんはない日本風の建築物である。鳥居は撤去されているが、よく観察すると、昔の神社の姿が彷彿としてくる。境内にあったと思われる古木も残っている。

”メダン・クラブ”というのは、メダンの上流階級の会員制のクラブである。メンバーでないと利用できない。トンクウ・ルクマンの招待で。一日、私は昼食をご馳走になった。多分。昔の本殿跡であろう。西欧風に仕切られた部屋の一角で、私は”御神酒”ならぬ地元のビンタン・ビールとビーフ・ステーキをご馳走になった。

戦時中、戦勝と戦意の昂揚を祈願して占領地各地に神社が造られた。当時,昭南と名前を変えたシンガポールでは昭南神社、メダンでは、戦時中のスローガンであった”八紘一宇”の”紘”と、メダン(Medan)のインドネシア語意の”原”を併せて”紘原神社”といった具合である。これらの神社は敗戦時、日本軍や現地の人によって壊されたが、この紘原神社だけは、なぜか残った。日本のインドネシア占領期は3年数か月で、この間に新しく建設された建築物は少ない。その意味では貴重な建物だ。

戦争中、この紘原神社では毎月1日、15日。8日の大紹奉戴日には、ここへ軍人たちが参拝し、戦勝を祈願し、その後宮城を遥拝した。大半がイスラム教徒のメダン市民の目には、この姿は異様に映ったようだ。イスラム教徒は一日に五回メッカの方向に向かって礼拝する。方向が判らないない場所にはキブラ(kibula)という矢印がある。そのように彼らにとっては、メッカの方向は重要なのだが、占領中、日本人の軍人の中には住民たちに対して、宮城遥拝を強制して問題になった。宮城は東、まさに西のメッカの正反対に当たるわけだ。日本は軍政の開始に当たって、幹部にはイスラム教の基本は教えたと伝えられるが、末端までは、それが徹底していなかった宮城遥拝は現地人だけではなく、収容所の連合軍民間人にまで強制したため評判が悪かった。

平成13年、私は軍政時代メダンの昭和ゴム支店に勤めていた日系オランダ人から(母親が日本人)紘原神社について次のような話を聞いた。「神社に使用された木はアチェ山奥から運んできた”神木”で、建立に当たってはオランダの捕虜が使われた」キリスト教徒が造った神社はここだけであろう。