ボルネオ守備軍(灘9801軍)の主たる業務は軍政であった。従ってジャワ、スマトラのように軍政監部を別途設ける必要はなかった。軍政の最高責任者、つまり軍政監は参謀長が兼任した。守備軍とイウ軍の性格上、兵力は僅かに歩兵二個大隊に過ぎず、軍政はもっぱら重要資源の開発及び内地への還送、それに木造船の建造であった。

木造船建造に関連して「昭和17年度北ボルネオ軍概要」は次のように述べている。「戦時海上交通の一元的運営とこれに伴う船舶及び港湾管理を強化し、最大限に現下所有海運施設を利用整備し、かつまた木造船舶建造を艇身実施し、船舶不足対策を打開せんとする重大目的を持って昭和17年9月15日海事局を設置した」これは東西に長い英領ボルネオの地形ならびに陸路の道路の無整備からみて当然の措置といえる。しかし、戦争末期には、木造船ができてもこれを動かすエンジンが日本から届かず使用できないという事態になった。

軍司令部がクチンにあった当時の英領ボルネオの治安は、アピ事件(昭和18年10月1日)までは比較的よかった。特に昭和17年はシフ州の一部でダイヤ族による略奪行為、首狩りなどがあったと「北ボルネオ軍政概要}は伝えているが、概して治安はよかった。英領ボルネオ地区には報道班員として派遣された二人の作家「キナバルの旅」(境誠一郎)と「河の旅」(里村欣三)が当時の模様を書いているので、概要を紹介してみよう。