マライ半島の裁判の多くは、抗日華僑を満足させるためのショー的要素が強かった。英軍は車を使って、マライ各地、文字通り津々浦々をまわり、拡声器で戦犯告発を呼びかけた。そして、町や村の学校、劇場などに日本兵を集め、会場内の一段と高い場所へ座らせ手、集まってきた住民に”首実検”をさせた。日本兵の首には番号が書かれたゼッケンが吊るされており、住民はその番号によって”犯人”を告発するという芝居がかったものだった。

もっとも理不尽なのは、ペナン法廷であった。この法廷では、かってペナンに勤務したというだけで、35名の憲兵が起訴され、うち20名が絞首刑に処せられている。特定の一つの事件ではなく、戦争中の日本軍の行為を一括総括して憲兵を処罰したわけである。終戦時ペナン憲兵分隊長であった寺田浄氏は、この裁判で銃殺の宣告を受けたが、のち終身刑となり巣鴨に送還されて昭和30年に出所した。寺田氏が戦後巣鴨で書いた「ペナン裁判」は、この裁判の実相を詳しく伝えているが、例えば公判の最大の問題であったペナン粛清事件について概要次のように伝えている。

「昭和17年4月、5月北部マライに駐屯していた第5師団は各地区の部隊に命じて抗日分子を一斉に検問検索した。その際、憲兵隊も一部を地区部隊に配属させるよう命令があり、K准尉(当時曹長)をその指揮下にいれた。起訴状によれば、この検問で検挙され刑務所に収容された抗日分子が、給養、衛生その他の管理の不充分と憲兵の拷問によって約千人が死亡したとされている。私(寺田)が前任者からの書類をみると、検挙者千人ののうち事件送致者、釈放者もいたわけである。死体を埋葬したという証人も”毎日搬送されてきた総数が千人”といった曖昧なものである。当時、この事件に関与した憲兵は5,6人であった。この数で千人を殺すことが出来るだろうか」

昭和21年9月26日、論告弁論で検事はこの事件を総括し「とにかく千人の命が失われている。千人の命に対して35人の命は安い。誰がやったのが問題ではない。35人は一体となってその責を負うべきである」と論じている。起訴された35人の大半は粛清時ペナンにいなかったし、いても直接事件には関係がない。