レムパン島の人口は12月には海軍地区を含めて4万8千人に膨れあがり、全員が飢餓線上の生活で、誰いうこともなく、この島を「恋飯島」と呼ぶようになった。あまりに悲惨な生活にSEAC司令部も人道上放置できず「レーション」(ration)という戦時携帯食糧をレムパン島へ緊急補給した。「レーション」の中味はオートミル袋、ビスケット3個、チョコレート3個、あるいはビスケットの代わりに米84グラムといったもので、熱量は平均4千カロリーはあった。このお陰で栄養失調は次弟に少なくなった。

昭和21年4月の調査によると、上陸時の地獄のような生活が災いし182名の方亡くなっている。マラリアが一番多く、次いで食べてた食物による中毒死である。あと少しで故国へ帰還できるというのに痛ましい。しかし、レムパン島抑留者は21年1月、重病者、民間人が第一陣として、4月から7月までに逐次復員船に乗って帰国した。

これに対して貧乏くじを引いたのは、シンガポール、マライに残された作業隊員で、日本軍の泰緬鉄道建設作業に使役された連合軍捕虜の労役の報復として酷使された。彼らは急造りのバラックに寝起きして朝早くから夕方まで働き通しで、マラリア、赤痢、栄養失調で倒れていった。日本政府は幾度ともなく作業隊員の早期帰還を英国政府に請願した。この結果、22年4月やっと帰国が実現した。「昭南特別視の崩壊」(篠崎譲)によると、敗戦直後から1947年(昭和22年)4月までの間に1万人以上の日本人が故国の土を踏まず死亡した。この1万人余の遺体は日本人墓地の西端に合葬されているが、この数は泰緬鉄道で死亡した英軍捕虜3400名、豪州軍捕虜3700名合計7000名よりも多い。しかも、日本人犠牲者は戦争が終わった後亡くなつた人たちである。この事実はあまり世界にしられていない。