昭和20年9月6日、英国第5師団から第7方面本部に対し、労務隊600名を差し出すよう命令してきた。日本側は、最初この命令を拒否したが、英国側は8月28日のラングーン協定違反として再度要求してきた。結局、日本側はこれを拒否すれば、終戦処理全体にも影響してくると判断、8日、昭南防衛隊から少佐を長とする600名編成の労務隊を供出した。作業は埠頭の荷揚げ、荷降ろし,どぶ掬いなどで、しかも休憩もない重労働であった。

日本側は12日、SEACとの正式降伏調印後、沼田南方軍参謀長が英15師団クリティファーソン中将に対して労務隊の派遣命令を派遣命令を撤回するよう求めたが、命令は国際法規と慣例などに照らして違反ではないとという回答であった。しかも戦争中の日本軍の捕虜取り扱いに比べれば、問題ではないというような、報復を匂わせる回答であった。

連合軍側は8日の労務隊を既成事実として、東南アジア各地で武装解除後の日本兵を労働力として使用するようになった。日本側は、さきのラングーン協定のさい、敗戦後の日本軍将兵の地位は「捕虜」ではなく「投降日本人」(Japanese Surrender's Japanese=JSP)だと主張した。「捕虜」(Prisoner of War=POW)という言葉は当時の日本人にとっては、まったく回避すべき言葉であった。このため、苦肉の策として「JSP」を主張したものと思われるが、これが結果としては逆目に出てしまった。「POW」ならば、ジュネーブ協定で戦時捕虜としての待遇が与えられるにかかわらず「JSP」では、なんら国際的な保証はない。このため「JSP」の扱いは時には「POW」以下であった。