「南方軍作業隊十万余名残置の概況」(俵伸一=「鉄の契りを第十一期、ポートデイクソン回顧録Ⅱ所蔵」は当時クルワンを通過した日本軍の状況について次のように記している。

「英軍指令により昭和20年10月から昭南、マライ、アンダマン、ニコバル所在の日本軍ならびにスマトラ所在の一部がレムパン島に移駐することになり、マライではクルワン飛行場の日と一隅にある検問所を通り昭南まで鉄道で運ばれる手順になった。移駐に当たり、、レンガム南馬来司令部が梯団を編成して検問所まで送った。南馬来軍の今岡参謀によると、南馬来軍の扱った梯団は一連番号をつけたものが21年7月現在105、海軍の別番号のものをあわせると約120梯団、そのうちレムパン行約50、内還(復員)約40、作業隊約30梯団であった。人数は第1から第27梯団までが一梯団1000名、28から40までが1500名ずつ規則的に送られてきた。(週一日休み)かつ39梯団まで全部がレムパン島行きであった。ところが12月の40梯団以降は発進が不規則となり、人数も500名から1500名まで不規則となった」

レムパン島については後述するが、島の収容人員には限度があり、南馬来軍本部には現地から食糧不足からSOSが発信されてきていた。南馬来軍本部は、おそらくこれ以上の送り込みは不可能と判断したのであろう。クルワン通過の部隊、作業隊要員として残置されることになった。