マライ、スマトラなど南方軍隷下の各部隊将兵にとってクルワンの地名は忘れられない。ここは故国に帰るためには必要な”関所”であった。ここで運悪く”ブラック”と認定されれば”戦犯収容所”へ送られ、さらに運悪ければ、一生故国に帰れないことになる岐路であった。運よく”ホワイト”とされても、その先には作業隊のキャンプや”死の孤島”といわれたレムパン島行きが待っていた。

昭和20年9月24日、昭南所在の部隊、第3航空隊、マライ南部所在の部隊を統合して南馬来軍司令部(司令官木下中将)がレンガムに編成された。SEACとの間に日本軍兵士の作業隊派遣業務、さらには復員業務を取り扱うのが編成の目的であった。10月3日、英34軍団長からマライ北部の第29師団に対して、毎日500人の割りでレンガムへ兵を南下させるよう命令があった。そして、同10日には蘭領りアウ諸島の一つ、レムパン島へ14万2千人の日本兵を移住させる計画が明らかにされた。

この計画に基づきレンガム近くのクルワン飛行場に英国軍の検問所が設けられ、マライ各地からレンガムに移駐してきた各部隊の将兵は、ここで検問を受けた。戦犯容疑者は黒色のテントに入れられ、容疑がなければ白色のテントに入れられレムパン島送りにされた。