降伏後の諸条件、日程などを決める第7方面本部の交渉相手方はマウントバッテン元帥率いる英国のSEAC( 南東アジア総司令部)であった。8月25日、ラングーンで第1回の会議が開かれ、、日本軍の撤退日時、方法などを含む基本線を決め、ついで9月2日の第2回会議で降伏式を9月12日挙行することが決まった。

しかし、現実には日本側は治安その他を考えて昭南防衛軍の兵士を、憲兵隊など一部の保安要員を除きマラヤへ移転させる計画をたてていた。また、民間人は島内の湿地帯ジュロンへの集結が検討された。ジュロンは島の西部の荒地で市街からも遠かった。ここに36棟のバラックが10間で完成、6千人の民間人が移住した。臨時の市庁舎と診療所も近くの丘に完成した。民間人は帰国が決まるまでの間、ここで集団生活をおくった。

昭南駐屯の部隊も当初ジュロンへ集結の予定だったが、SEAC司令部の再三にわたる進駐計画の変更で9月8日までにジョホール水道を渡河、昭南から撤退するよう命令された。そして、さらに9日になって英軍161旅団がジョホール市を占拠することに決まり、ジョホールに集結していた日本軍はさらに北方レンガムへ移動させられた、結局、第7方面軍司令部も11日、レンガムへ落ち着いた。

この間、英軍先遣隊は3日にペナンを接収、5日には英印第5師団が昭南に上陸、9日には英印34軍団がポートディクソン、ポートセッテンハムにも上陸、逐次要衝を占拠した。そして9月12日、昭南市庁舎で降伏調印式が行われた。

これより先、昭南では第7方面軍司令部から各軍に対して軍旗と御紋章の奉焼が示達された。昭南では8月20日すぎ、各部隊連隊長が昭南神社に集合、板垣司令官も出席して神社のご神体を奉焼、沖合10数マイルの海底に沈めた。神社社殿も取り壊され、忠魂碑も工兵隊によって爆破処分された。