1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、連合軍に全面降伏した。第7方面軍司令部のあった昭南では、電波状態が悪く、この日正午(日本時間)からの天皇陛下の玉音放送はキャッチ出来なかったが、夕刻、同盟通信で大詔全文を受信、敗戦を知った。

すでに日本の敗戦は非公式に知れ渡っており、昭南市内にはユニオン・ジャック(英国国旗)や青天白日旗(中国国旗)が掲げられているのが見られた。方面本部の幕僚や隷下部隊の間では、詔勅を全面的に受入れるか、それともこれを排して抗戦に徹すべきか意見が別れた。しかし、17日サイゴンの南方軍総司令部の会議から戻った板垣征四郎司令官は、隷下の第16軍(ジャワ)第25軍(スマトラ)第29軍(マライ)司令官(第37軍=英領ボルネオとは連絡とれず)を呼び、承詔必謹を明示した。そして、司令官訓電によって配下部隊の動揺防止と秩序維持に努めた。18日、板垣司令官は昭南特別市、軍政監部の科長以上に対して、陛下の聖断を説明、無益の混乱を起こさないよう訓示した。

しかし、配下の部隊の中には、敗戦はまさに青天の霹靂で、絶対抗戦を叫んで昭南を脱出する部隊(浪機関、潮機関)もあった。また、詔勅を読んだ連隊長を売国奴呼ばわりして射殺、自らもピストルで自殺した中隊長もいた(第47師団=静師団=迫撃砲大隊)。敗戦を知らず、ジャングルの中でMPRJAとの戦闘を続行、戦死した兵長もいた(第47師団歩兵123連隊)。