義勇軍は昭和18年9月、南方総軍の「原住民部隊の編成」命令に基づき同年12月編成を終えている。「日本の占領下 1941-45」によると、義勇軍はマレー人約2000人で、英国軍から没収した自動小銃とライフル銃で武装、日本軍と同じような制服を着用、将校は日本人と同じような処遇を受けた。本拠地はジョホール・バルで海外への派遣はなかった。

義勇軍(Voluntary Army)に対し義勇隊(Voluntary Coops)という組織もあった。義勇隊は治安維持のための小部隊で、準兵士と準農夫の軍隊であった。義勇隊にはマラヤ居住のビルマ人、タイ人は参加を許されず、インド人は義勇隊ではなく、インド国民軍(INA)への入隊を薦められた。義勇隊の各隊は徴発した猟銃で装備,隔日、隔週で訓練を行った。役割は国内の防衛、とくにパラシュートによる上陸の防止、沿岸警備であった。19年3月現在の義勇隊の総数は、およそ5000人であった。義勇隊についての日本側の記録はないが「日本占領下のマラヤ」の記述から見ると、地域ごとに各部隊が結成した”屯田兵”的な国防団ではなかったのではないかー。「The Japanese Occuption1942-45」の写真には「馬来義勇軍本部」と漢字で看板がかかっている。