「マレー青年同盟」(KMA)工作について「F機関」は、戦前から連絡を取り南タイから国境を越え、マライ入りする予定だったが、KMA幹部のほとんどが英国側に捕まっていたため、緒戦の作戦にはまにあわなかった。しかし、その後の作戦ではマレー人の懐柔、食糧の調達など積極的に日本軍に協力したが、占領後の日本軍政はKMAを重用しなかった。

これは東京の大本営の政策によるもので、軍政施行に当たっては(1)出来るだけ従来の行政機構を維持し、役人もそのまま雇用する(2)そして、民族主義運動は抑圧するーいう方針からくるもので、昭和17年6月、KMAは早くも禁止された。それまでKMAを指導してきたイブラ匕ム・ヤコブ・イシャク・ムハマンドは日本軍宣伝班に配属された。のちにイブラ匕ム派日本軍によって創設されたマレー義勇軍司令官(中佐)に任命されたが、彼は戦後マレー義勇軍はMPAJA(マラヤ抗日人民軍)との武力衝突を回避するよう努力した、と発言している。(「日本軍政下のマラヤ」1941-45」)日本軍政下の彼の苦しい立場を代弁している。