しかし、独立に至るINAの道は決して平坦ではなかった。参謀本部は藤原少佐の「F機関」を発展的に解消して岩畔少将を長とする「岩畔機関」を設立、昭和17年3月、東京で東南アジア各地にいるインド独立運動の指導者を一堂に集めて会議を招集した。

これは戦前から東京に滞在,頭山満らの支援を得てインド独立運動を展開していたビハリ・ボースの提唱によるものであった。ところが、ILLの代表の一人として空路来日したプリタムン・シンらの乗った中華航空九竜号が3月24日、悪天候のため北アルプスの焼岳に激突遭難した。この飛行機にはプリタムン書記長のほかIJNの志士3人と藤原機関の通訳、大田黒又男氏が同乗していた。藤原機関長は別の飛行機に乗っていてぶじだった。

この予期せぬ事故だけでなく、会議も軍が期待していたほどの成果もなく、逆に在日インド人とアジア各地から来たインド人との間の意見の違いを浮き彫りにさせた。