「日本政府のインド人対策は、いかにして彼らの支持をとりつけるかということであった。1941年、日本はすでに「F機関」の名の下にインドの諜報機関とのネットワークの構築を開始していた。「F機関」はインドを英国の支配から解放するという約束のもとにインド独立連盟(ILL)運動と密接な関係を保持した。シンガポールが陥落した後、インド国民軍(INA)が結成され、マライとシンガポールのインド人は加入するよう勧奨された。ILLとINAへの参加は1943年7月、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースのシンガポール来訪を機に加速され(「The Japanese Occupation 1942-45)

「F機関」というのは機関長の藤原岩市少佐のFujiwaraの「F」、それにFreedom Freindshipの「F」をとって、開戦前、バンコクで発足した対インド工作の諜報機関である。陸軍中野学校の教官であった藤原少佐を長に尉官クラス5名が中心となって1941年9月18日結成された。名称は「F機関」だが、発案者は当時バンコク駐在大使館付武官、田村浩大佐で、事前にマライ、シンガポールを調査した上でスタートした。

この田村大佐の志向した対インド工作について中野学校が編纂した「陸軍中野学校」は次のように述べている。

「この工作の目的はマレー英印軍内インド兵の戦意破砕、投降と背反を促し、マレー在住のインド人(90万人)の反英対日協力を獲得するものである。この路線はバンコクに本部を持つILLという反英独立運動の秘密結社を利用する工作である。この結社はシーク族が主体で、南タイ各地を始め香港、上海、東京、ニューヨーク、ベルリンなどに同志を持つ組織で、従来インド独立の主流から外された微力なものであった。この路線は昭和15年12月、香港から脱出した南支那派遣軍に援助を求めてきた三人の志士を、参謀本部も手伝ってバンコク密航の願いをかなえてやったことによって工作のルートが開始された。