軍政監部の委託を受けてマライ半島へはいろんな部門の企業が進出した。 日南製鉄は現地にレンガ積実の溶鉱炉を組み立て木炭で製鉄しようというものだった。讀賣新聞記者から転身して、この事業に役員として参加した、加藤主計氏が戦後出版した「マライに生きる」という本の中で当時の日南製鉄の模様を読物風にまとめている。

日南製鉄の事業所はマライ半島北部ケダ州のビドンという町の近くであった。かってゴム農園があった山奥を整地し、ここに工場、資材倉庫、社員寮、医務室などを設け、日本から各部門の専門家約百人が昭和18年初めからここで現地人を雇用し共同で作業をしていた。しかし、戦局の悪化から資材の現地調達が進まず、また準備した500馬力のエンジンが発電機との間をつなぐシャフトが折れ、使いものにならなくなった。ペナン対岸のプライの火力発電所からの送電を計画、20マイルの送電線を新設、やっと工場が稼動したのは敗戦の直前であった。結局、溶鉱炉は本格的な働きをしなかった。

事業所のあったケダ州はマライでは最大の穀倉地帯であったが、マライ、シンガポール全人口を養うには米不足で、事業所ではヤミ米を手に入れるのに苦労していた。また、医務室があっても常駐の医師がいない為、マラリア、アメーバ赤痢の治療も大変だった。遠く離れた南冥の地での集団生活だったため,性の処理など経営者にとって頭の痛い問題も多かった。

敗戦近くになると、事業所一帯にも敵のスパイが暗躍、日本人社員にもその手が伸びていると言う噂が出てきた。そんな状況下で敗戦を迎えたが、案の定スパイと噂されていた男が,同志をつのり仲間にピストルを突きつけ、倉庫から銃器、弾薬を奪い二台のトラックで共産匪賊軍(MPAJA)へ逃亡する事件も起きた。この本のあとがきによると、この逃亡した社員の一人が、昭和32年、マレーとタイとの国境のジャングルで発見された、という報道があった。戦争中ケダ州の製鉄工場で働いていて戦後MPAJAに参加した10人のうちの一人であった。戦後マラヤに残った日本人の数は不明だが、少なくとも数十人はいるとみられている。