日本の軍政下、一般邦人の生活はどうだったのであろうかー。マライ半島3か所(ジョホール、マラッカ、タバー)にそれぞれ工場を持っていた小田原製紙株式会社(大蔵用紙店)の「南方事業報告書」(昭和22年5月13日製作)が当時の模様を伝えている。

(治安)

(ジョホール、ジョホール・バル)市内の治安状況は比較的良好であった。工場のあったジャラン・スクダイ(ジョホール・バル市内から約10キロ)近辺は戦前より独立共産軍の巣窟として知られ、マライ半島随一の危険区域と恐れられていた。現地人だけの警察なので警備力が弱く、まるで無警察状態で、日本人経営の一般事務所、工場、農園が集団襲撃を受け、略奪、殺人事件が頻々ととして発生した。わが工場内にも共産分子が潜入、ゼネスト決行の動きさえあった。軍当局に陳情の結果、台湾人警察官が警察分署長として赴任、警備体制は強化れたが、付近のゴム林や山中には依然共産匪賊が跋扈してあまり効果はなかった。

(マラッカ)マラッカ付近は、住民たちの性格は温厚柔順で、邦人に対する信頼感情は非常に強かった。治安状況は至って良好で、とくに当工場では包容力豊かな行森工場長の人格を反映して全従業員がよく融和、協調して生産増強に努め和気あいあいたる、その雰囲気はマライ半島随一の模範工場として自他ともに認めるところであった。

(タバー)当工場の位置する付近も、当初は治安の悪い地域とされ、日本人の居住は危険区域といわれて敬遠されていた。派遣員の一部でも身辺の危険を危惧して反対意見もあった。しかし、邦人派遣員は工場内に宿泊して工場設営に邁進、付近住民の宣撫指導に努力した結果、彼らの信頼を受けた。また、警察分署が設置され治安が確保された。