占領直後(昭和17年)と敗戦直前(昭和20年)では、戦争局面の推移で軍政にも変化もみられるが、終始変わらぬのは華人対策、具体的にはMPAJA(マラヤ抗日人民軍)との戦い。そしてこれを支援する136部隊との戦いであった。 136部隊は英国の諜報機関、SOE(特殊作戦戦闘部)が中国政府との連携で組織した諜報部隊である。主な目的はMPAJAの武装と訓練、最終的には日本軍の後方攪乱であった。136部隊の指導者の一人、林謀盛大佐は、マライ国民党員で、重慶政府の連絡将校であった。彼はシンガポール陥落直前の2月13日、同僚15人と共に脱出、ジャワから英国巡洋艦でセイロン(スリランカ)のコロンボに渡り、ここで中国人船員を中心に136部隊を結成した。

136部隊は43年5月、デービス大佐(戦前のイポー警察署長)を中心に”ダスタブス・1”作戦を開始、カルカッタから潜水艦で隊員をマレー北部のベラ河口から上陸させた。上陸したデービス大佐等はMPJAと連絡をとりながらジャングルに潜伏、対日ゲリラ戦を指揮した。しかし、同10月の上陸作戦で林謀盛大佐らが検挙され、同大佐は刑務所内で死亡した。さらに44年3月の作戦では、多数の犠牲者を出して失敗した。このため、作戦は落下傘による降下に変更、人員だけでなく兵器、食糧をジャングル内に投下した。一方、豪州軍の協力で44年10月、136部隊は南ジョホールへ潜入しMPAJA第4大隊との接触に成功した。そして対日抵抗運動を組織、ぺラ北部、ケダ、パハン州へゲリラ部隊を送り込んだ。「1945年8月までに136部隊はマラヤに英国軍将校多数を含む300人以上の兵員を配備した。また国中に1000便余りの飛行便を運行し、来るべき連合軍の投入に備えてゲリラ部隊用の2000丁以上のライフル(一説には5000丁)と700トン余りの手榴弾や爆弾などをの武器類の投下も完了していた」(「日本占領下のマラヤ」 ポール・H・クラトスカ 今井敬子訳)

45年に入ると146部隊の潜入作戦は"野放し"で、7月タパー近くの密林でMPAJAの索敵に当たっていた第29軍憲兵隊戦闘隊長の谷口武次大尉は、色とりどりの146部隊の落下傘が降下しているのを目撃している。。しかし、制空権を完全に奪われていてどうにもならなかった、と著書「激動の世紀」の中で書いている