昭南特別市の軍政の基本は「南方占領地行政実施要領」(別項)に基づく。これを整理すると、占領の目的は占領地の治安の維持、重要国防資源の獲得、作戦軍の自活の三つであった。その要領に従って第25軍ではシンガポールを直轄として昭南特別市都市、マレー半島は従来どおり10州にして、それぞれに長官を置いた。

昭南特別市発足時の昭和17年2月には、豊田薫前シンガポール前総領事ほか邦人は17名しかおらず、応急的な市政を担当、とりあえず治安回復、市内の清掃、道路、ガス、水道などのインフラ整備に当たった。一応、組織としては、総務、財務、産業、交通の4部を設け3月7日には大達市長が到着した。軍政要員としては開戦直後に各省から47名が決定、1月上旬に日本を出発した。3月に入って特別市の機構も内定政、警備、司法、会計検査、鉄道管理、郵政管理と整備された。

17年7月,第25軍のスマトラ移住とともにマライ、スマトラ両軍政監部に分割された。そして南方総軍がマライ軍政監部を統括、19年1月、第7方面本部創設とともに軍政監部もマライのタイピンに移った。昭和17年8月の軍政総監指示によると、第25軍の軍政要員は高等官853人、判任官1763人であった。

昭南特別市では、軍政要員は2年ぐらいで交代している。南方総軍の昭南特別市顧問として永田秀次郎(前東京市長,拓務大臣)広瀬豊作(前大蔵次官)、また第25軍には徳川義親(侯爵)大塚惟精(貴族議員)が任命された。

昭南特別市は組織図的にはマライ軍政監部の下であるが、英国植民地時代のシンガポール市役所でもあるという二重の性格を持っていた。このような組織の中で日本人の軍政要員は部科長職や補助職員として現地職員を指導として行政に当たった。その数は200人前後で、この中には医師。看護婦、教員、警察官も含まれている。軍政要員の構成は、日本本土からの派遣者、民間出身者、それに戦前からのシンガポールの居住者の三つのグループからなっていた。要員は新開地のホーランド・ロードを中心に何人かが一緒になって集団生活していた。

昭南市周辺の蘭領印度の島、バタム、ビンタンなども軍政管轄は昭南市に属し、警察署の出張所が置かれた。戦後、ビンタン島のタンジュン・ピナンでBC級連合軍裁判が開かれ、戦中の事件がさばかれたが、この所管はオランダであった。